2015.11.28 [ 歴史・祭・暮らし ]
四徳の山奥に 【井月さんのこころ142】
井月さんのこころ シリーズ その142
前回その141 で、山の神祭り、旧暦神無月十日夜(とおかんや)の行事について記しましたが、井月さんの日記の中に「山の神馳走」という記述を見つけました。
井月さんが書き残した日記が、晩年の明治16年12月から18年4月までの間の、実際には360日余の記録が存在するということについては、遡回その76で紹介しました。
2014年9月6日 稔り間近の秋に 【井月さんのこころ76】
そのことは、昨年8月に開催された第2回千両千両井月さんまつりのシンポジウム「井月と放浪の俳人たち」において井上井月顕彰会理事で「漂泊の俳人 井月の日記」(ほおずき書籍)の著者である宮原達明氏のお話しの中に登場しました。その井月さんの日記について、関連資料の収集を重ね伝承等を紡いで解き明かした「漂泊の俳人 井月の日記」が出版されたのが昨年8月のことでした。宮原達明先生は、上伊那農業高校長などを歴任された方で、この本には「日記と逸話から井月の実像を探る」という副題が付けられています。
これにより明治17年10月の井月さんの足取りを追ってみますと、十月八日、九日と東春近上殿島の飯島幾太郎(柳哉)宅に二泊した後、十日の日記に「快天 山の神馳走」と記されています。十一日は、手良の向山周平(中や)宅へ泊まったことが記されていますので、三峰川を挟んで上殿島から手良までの辺りで行なわれていた何れかの「山の神」のお祭りで御馳走に預かったということだと考えられます。
更にその後の井月さんの足取りを追ってみますと、十月二十日の夷講(ゑびすこう)前後も東春近、西春近、宮田辺りで寄宿し、二十八日から四徳酒祭りに出かけ、十一月三日まで5日間四徳に滞在しています。
ちなみに飯島幾太郎(柳哉)は、「漂泊の俳人 井月の日記」に「上伊那農学校の創立に力を尽くした男」として紹介されています。牡丹で有名な飯島吉之丞(吉扇)の長男で、後に西天竜開田の土地改良事業や県立上伊那農学校の創設に尽力した篤農家であり、県農業幹事として長野県の農業発展に貢献された農業改良普及分野の先達者です。吉扇亭・牡丹亭は、遡回その11やその126にも登場しましたし、井月さんの日記の中にも頻繁に登場します。
2013年5月25日 花王咲き誇る頃【井月さんのこころ11】
2015年8月8日 五色の短冊に 【井月さんのこころ126】
四徳については、来週のチェーンソー講習会の記事に登場する予定です。井月さんがこの季節に四徳で詠んだ句です。
さまざまの面数ありて里神楽(かぐら) 井月
以下、この句の評釈について、井上井月研究者である竹入弘元氏の「井月の魅力 その俳句鑑賞」(ほおずき書籍)から引用させていただくと・・・、
「七十五社」と前書き。中川村四徳の中古以来の氏神。宮廷の神楽に対して、それ以外の神社や民間で行なう神楽が里神楽。
井月は、何回となく毎年のようにこの神社の祭礼に出向いている。明治十七年の日記を見ると、秋の祭礼に出かけて五日も滞在。面を村人は自分で造る。今は神楽の廃れたところでも多数の面を蔵していることに驚かされる。
(神楽・冬)
しめやかに神楽(かぐら)の笛や月冴る 井月
以下、この句の評釈についても竹入弘元先生の「井月の魅力 その俳句鑑賞」(ほおずき書籍)から引用させていただくと・・・、
実りの秋、豊作感謝の神社祭典。この句も四徳の神社で詠んだ。山つきの小さな神社も祭典には神楽奉納。小学生が赤の袴、顔には鼻筋に僅か白粉を引いただけですっかり日常を脱して神聖な神子になりきる。
同じ村人の奏でるしめやかな笛の音。平和な村里に夢幻の時が流れる。気がつけば外は清らかな月光。小川のせせらぎ。静かに夜は更けてゆく。
(神楽・冬)
竹入弘元先生の評釈にも登場した明治十七年十月の井月さん四徳滞在の日記は、宮原達明氏の「漂泊の俳人 井月の日記」(ほおずき書籍)によれば次のとおりです。
廿八日 四徳酒祭ニ付早朝出立、さそふ堂ニ而休、雪天寒、上下寒風。梨ノ木に八時頃着、茶漬に預り、御祭礼出向。小川内へ寄 酩酊 泊。
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