こんにちは。田舎人(いなかじん)です。
農地整備課では今年も拾ヶ堰見学会を開催し、安曇野市他の小学生、計約800名が参加して
います。この見学会は今年で24年目を迎え、郷土の発展の礎となった拾ヶ堰がなぜ造られた
(江戸時代1816年築造)か、先人たちの努力と工夫を伝えてきました。
https://blog.nagano-ken.jp/matsuchi/area/azumino/49771.html
(松本地域振興局「来て!観て!松本『彩』発見」)
拾ヶ堰見学会を契機に、今回は、当時の人たちがここまでして行う事業の原動力は何だった
か、稲作への情熱について探ってみたいと思います。
※文献等を通して探り、拾ヶ堰の語り部の方と座談してまとめてみましたが、もっと広く、深く読み取り、
また、取材を重ねて積み上げていきたいと思います、お読みいただいた方々からご意見を頂戴できればと
思いますので、よろしくお願いします。
安曇(阿曇)族による開発
さかのぼること7世紀頃に安曇族が北九州から中信平の盆地へ来たとされ、大和朝廷の任を
受けて蝦夷征伐が大きな目的であったとも言われています。安曇族は海洋民族であり、優れ
た航海術と稲作技術を持っていたそう。穂高神社はじめ、安曇野市各地で「お舟祭り」が行
われていることはそれを裏付けているかもしれません。
https://www.city.azumino.nagano.jp/site/virtualmuseum-folklora/71118.html
(安曇野市バーチャルミュージアム 民族 ムラの祭り)
みなさんの家のお年取り、鰤(ブリ)ですか?鮭(サケ)ですか?
一般的に年取り魚は、東日本は鮭、西日本が鰤ですが、長野県内では東北信は鮭(佐久は鯉
かもしれません)中南信が鰤だと思います。松本・安曇野地域では鰤が食べられてきただろ
うと思います。
https://www.city.azumino.nagano.jp/site/virtualmuseum-folklora/71120.html
(安曇野市バーチャルミュージアム 民族 折々の食事)
鰤はイナダ → ワラサ → ブリ(関東地方の呼び名)と成長していく出世魚で、祝いの
縁起魚として珍重されました。
鰤に懸ける思い
安曇野の先人がここまでの大工事をして堰を造って守り、ひたすら豊作を願って米作りに
精進したのはどうしてだろう。生きるため、食べるため、養うためはもちろん、海洋民族、
安曇族が始である先人は、年取りに何としても鰤を一本用意したい、というものだっ
たのだろう。年中行事のクライマックス、晴れのごちそうだったのでしょう。能登から
野麦峠を超えて運び込まれた鰤は、「飛騨鰤」と呼ばれ、海から距離が離れれば離れるほ
ど鰤の値は上がり、野麦峠を越えて来ると、「寒鰤一本、米一俵」と言われるほど超高価
だったそうです。能登では鰤は米一斗だったそうで、値は4倍にもなりました。
https://museum.furusatonagawa.com/about.html
(奈川 野麦峠ミュージアム 背景と歴史 野麦街道と野麦峠)
鰤にまつわる逸話
年取りには鰤の尾頭付きを1本用意できなければ、各家の面目にかかわったそう。どう
しても用意できなかった時には、三枚におろした鰤の尾頭付きの骨を買ってコモを巻き、
尾頭だけ外に出して見栄を張ったという逸話があるとか。また、鰤の尾を神棚に備える
ほどに、大切にしたことがうかがえます。
イメージ:コモを巻いて中がわからないようにした
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