さて皆さんは、多田(中萱)加助を知っていますか?
江戸幕府が開かれてから約80年後の貞享(じょうきょう)年間、松本藩では不作が続いて困窮を極める中、過酷な年貢に苦しむ農民たちの窮状を訴え、一揆を主導したのが安曇郡長尾組中萱村の庄屋(名主)の中萱加助です。
加助らの年貢減免の要求は一旦藩側に聞き入れられるものの捕縛され、首謀者の加助以下幼い子供らを含め28人(一説には31人)が松本藩内の2ヶ所の刑場で処刑された一連の事件が貞享義民騒動といわれるものです。
この度、安曇野市貞享義民記念館主催の「貞享義民旧跡巡り」に参加することができました。
旧跡巡りは、安曇野市・松本市内の貞享義民騒動に係る旧跡、18ヶ所をめぐる盛りだくさんな内容でした。私見も交えてその一部をご紹介します。
まず、記念館近くの【加助の屋敷跡】に行きました。加助の屋敷は現在の義民社の西側にあり、当時屋敷の周囲は水を湛えた堀に囲まれていて、かなりの規模だったようです。
その堀の一部が東南にわずかに残っていて、往時の面影をしのぶことができます。
捕らえられた加助ら一行は、上土の牢屋を目指して犀川の岸にある【熊倉の渡し】に向かいます。そこまでの護送ルートは今となっては知る由もありませんが、途上私の自宅の近くを通過したのであれば、当時その様子を私の先祖様はどういった思いで見送ったのか興味が尽きません。
昭和25年丸の内中学校建設のための造成工事を行っている最中、多くの人骨が発見されました。調査の結果一帯が加助らを処刑するため臨時的に設けられた【勢高の刑場】と判明、後年出川の刑場で処刑された人たちの遺骨とともに近くに【義民塚】を設け祀られています。
加助は処刑の際、「二斗五升だ」と絶叫しつつ、訴えを反故にされた恨みとともに松本城天守閣を睨みながら刑死。その瞬間、天守が大きく傾いたという伝説があります。
今を去ること約340年前、磔柱に晒された加助を取り巻いた農民らは、自らの非力を嘆き、念仏を唱え、慟哭とともに加助を見送った凄惨なドラマがこの地であったことに思いを馳せながら義民塚を後にしました。
現在、義民塚のお堂からビルの谷間に松本城を望むことができます。
当時松本藩には農民たちに同情し、義民救済のため奔走した役人もいました。その一人が【鈴木伊織】です。多くの農民に慕われた伊織は死去の際、加助騒動の二の舞を恐れた松本藩は、農民たちに悔やみに行くことは罷りならんといった触れを出したそうです。
イオンモール松本と指呼の距離にある伊織の墓の近くには、湧水が湧き出ていて時代を越えて多くの人たちに愛されています。
松本藩の常設の刑場が【出川の刑場】です。現地は、「ハローワーク松本」から西に約370m、田川の右岸の堤防の下、畑の隅に三本の碑があってそこが刑場であったことを示しています。ここで筑摩郡の関係者11人が処刑されたといいます。
現在、周囲は住宅地となっていて、碑が無ければかつて刑場とは思えないような場所ですが、刑場の露と消えた人たちの無念を思わずにはいられませんでした。
当時の慣わしで罪人たちの弔いは永らく赦しが得られず、加助らの法要が執り行われたのは没後50年のことでした。そういったこともあって、貞享義民騒動を記す文書なども少ないというのが実情のようです。
加助らに所縁のある旧跡を巡りながら、当時生か死かの選択しかなかった農民たちに心を寄せ、自らの命を差し出した勇気と気概とは裏腹に家族との決別、死罪と翻弄された運命に加助は悔いるものはなかったのでしょうか。
この度、加助騒動を身近に学ぶ機会を得られたことで、人としての加助の魅力の一端に触れることができ、大変有意義なひと時となりました。
今後の加助騒動の研究の更なる進展とともに再評価を期待したいと思います。
*旧跡の見学にあたり車を安心して停められるところが限られます。何卒ご了承願います。
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