2014.11.15 [ 自然・山・花 ]
晩秋の風と残菊に 【井月さんのこころ86】
井月さんのこころ シリーズ その86
伊那谷の晩秋の風景、軒先に吊るされて日を浴びる干し柿には暖かさを感じますが、朝晩の寒さが身にしみる季節になりました。井月さんはこう詠みます。
草木のみ吹くにもあらず秋の風 井月
この句の評釈について、井上井月研究者である竹入弘元氏の「井月の魅力 その俳句鑑賞」(ほおずき書籍)から引用させていただくと・・・、
草木に秋風が淋しい。やがて冬枯れの季節。だが草木だけに吹くのではない。我に吹くとの認識と、それに耐える上に彼の俳諧があるとの覚悟。
芭蕉は死の二年前、仮の住いを出て托鉢に命を繋ごうとして、「栖去の弁」を書いた。「なし得たり、風情終に菰をかぶらんとは。」と。井月は最も芭蕉に近かった一人であろう。
(秋の風・秋)
竹入弘元先生の「井月の魅力 その俳句鑑賞」(ほおずき書籍)のあとがきに、芭蕉翁にあやかろうとした井月さんの苦闘について次のような記述があります。
「芭蕉ほどの大家でも俳諧の指導で生活の糧を得るのは容易でなく、やっと楽になったのは晩年の十年。……「なし得たり、風情ついに菰をかぶらんとは」この芭蕉の風狂を、井月は地で行く。井月は終生もの乞いはしない誇りを持ち続けたが、実体において乞食同然に落ちざるを得なかった。」
芭蕉翁の『栖去之弁』 (元禄5年2月)には、
「ここかしこ浮かれありきて、橘町といふところに冬ごもりして睦月・きさらぎになりぬ。風雅もよしや是までにして、口をとぢむとすれば風情胸中をさそひて、物のちらめくや風雅の魔心なるべし。なほ放下して栖を去、腰にただ百銭をたくはへて拄杖一鉢に命を結ぶ。なし得たり、風情終に菰(こも)をかぶらんとは。」
とあり、無一物、一所不住の自由な境涯に身を置いて花鳥風月とともに生きることを楽しむ「風雅の魔心」に憑かれた芭蕉翁は、一本の杖と一つの托鉢の鉢で生きていこうと志したとのことです。終に世俗を脱して「軽み」の境地に辿り着かれた俳聖の翁、49歳のことでありました。
実際には芭蕉翁は、元禄5年5月弟子達の尽力により新築なった江戸深川「芭蕉庵」に転居して新居の庭に自身の俳号とした芭蕉を植えて2年余り暮らしています。
芭蕉翁の『芭蕉を移す詞』には、
「菊は東雛に栄え、竹は北窓の君となる。牡丹は紅白の是非にありて、世塵にけがさる。荷葉は平地に立たず、水清からざれば花咲かず。いづれの年にや、住みかをこの境に移す時、芭蕉一本を植う。風土芭蕉の心にやかなひけむ、数株の茎を備へ、その葉茂り重なりて庭を狭め、萱が軒端も隠るばかりなり。人呼びて草庵の名とす。 ……(中略)…… ただその陰に遊びて、風雨に破れやすきを愛するのみ。」
平地に立たず、水清からざれば花咲かずの「荷葉」とは「蓮」のことです。参考までにこちらを。
2014年7月26日 梅雨明けの頃 【井月さんのこころ70】
https://blog.nagano-ken.jp/kamiina/nature/4686.html
芭蕉翁は、その2年後、元禄7年旅先の大阪にて病の床に伏し、10月12日多くの門弟たちに見送られ生涯を閉じたのでありました。
病中吟
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉
遺言によって、大津の義仲寺に運ばれ、埋葬されました。
義仲寺については 2014年1月18日 読書始めの頃【井月さんのこころ44】
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