そのころ、幕末から維新にかけての混乱期に全国に出回った
「贋二分金(にせにぶきん)」が大きな問題となります。
二分金は一両の半分の価値の金貨(一両=4分=16朱)で
贋二分金は、銀、銅、真鍮の台に金をかぶせただけのもので
伊那谷には全国の2割が流入したと言われます。
二分金が信用失墜して使えなくなることは、民衆の暮らしの崩壊に
つながり、明治2 (1869)年7月には飯田で「二分金騒動」と呼ばれる
大暴動が起き、その後県下で上田騒動、会田騒動等が発生しました。
(写真)展示されている二分金の本物(左)と贋金(右)
この状況を収束するために、新政府は明治2年9月
「贋二分金100両を金札30両に交換する」と宣言し布令を出します。
このままでは、民衆は持っている贋二分金の七割損をしないと本物に
交換できないことになります。
ここで伊那県官員達が知恵を絞って出した結論は、以下の通りでした。
1 伊那県では贋二分金100両を金札100両に「等価交換」する。
2 伊那県が国との交換で損失となる70両分を負担する。
3 負担分を埋め合わせするために、新たに「伊那県商社」(今の株式会社)
を設立し、商社が稼ぐ利益で負債の返済をしていく(商社構想)。
商社立ち上げ資金50万両については、豪農・豪商の協力による出資を
あおぐとともに、「商社札」(今でいう株式)を発行し、資金を調達する。
伊那県商社は、具体的には生糸をはじめ県の特産物の流通ルートを県が
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