掌握する官営会社で、横浜を窓口とする海外貿易から上がる利潤を
贋金回収の損失補填に充てるというものでした。
この施策は全国でも稀な構想であったらしく、民衆のための世直し
「御一新」を目指した伊那県にとっては、他県の模範になるとの自負が
あったようです。
しかし、贋金回収を進めていた矢先の明治2年12月、新政府から突然、
商社札を含む「私札発行禁止」の命令が下されます。
これにより設立資金を得ることができなくなり、伊那県商社は設立できず
構想は頓挫、多額の負債だけが残り、窮地の打開策として禁止されている
オランダ商人からの借入れや税金による負債の穴埋めを行ったため、
これらの事実が発覚、「伊那県商社事件」として、北小路知県事は罷免、
伊那県創県期の主要官員とともにその後有罪となり失脚することとなりました。
発行がかなわなかった「伊那県商社札」(右)
伊那県庁に関する展示資料を見ることができます
その後、伊那県は明治3年(1870)9月、新政府により新たに設置された
北の中野県と二つに分割されます。
その間も、伊那県庁では永山盛輝大参事が先頭に立ち、新田開発やじゃがいも、
養豚といった産業による地域おこしの新たな取り組みを進めましたが、新政府
主導の廃藩置県による統合により、ついに伊那県は明治4年(1871)11月に廃止され、
信濃の国は長野県と筑摩県に、そして明治9年(1876)の長野県統合と、明治期の
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