い~な 上伊那 2つのアルプスと天竜川からなる伊那谷の北部に位置し、雄大な自然に囲まれた上伊那地域。 この地域の自然、食、歴史や地域のがんばる人々など、私たち職員が見つけ、感じた上伊那の魅力と地域の活力を発信します。

い~な 上伊那

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神仏分離令に 【井月さんのこころ115】

 平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場でした。神仏混淆のころは戸隠山顕光寺と称し、当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほどに栄えました。

 江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東叡山寛永寺の末寺となり、農業、水の神としての性格が強まってきました。山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳を伝える杉並木も植えられ、広く信仰を集めました。

 明治になって戸隠は神仏分離の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と名前を変えて現在に至ります。

 廃仏毀釈の影響で戸隠山顕光寺にあった多くの仏像も難にあったようですが、今回の式年大祭においてそれらの仏像が里帰りして「宝物展・離山仏里帰り拝観」が行われたとのことです。戸隠神社のホームページから(関係部分を抜粋)

 一八六八年(慶応四)年、明治政府の神仏分離政策によって戸隠山顕光寺は戸隠神社となりました。奥院・中院・宝光院は奥社・中社・宝光社となり、各院は廃仏を迫られましたが、何体かは心あるお寺へ移安され、現在までその姿を長らえています。そのような離散した宝物が故郷戸隠へ里帰りし皆様にご拝観いただけます。(26日(火)まで)

 ウィキペディアによれば「両部神道」の解説は、次のとおりです。

 両部神道では、伊勢内宮の祭神、天照大神(あまてらすおおみかみ)は胎蔵界の大日如来であり、光明大梵天王であり、日天子であるとし、一方、伊勢外宮の豊受大神(とようけのおおみかみ)は、金剛界の大日如来であり、尸棄大梵天王であり、月天子であるとする。そして伊勢神宮の内宮と外宮は胎蔵界と金剛界の両部で、この両部が一体となって大日如来の顕現たる伊勢神宮を形成しているとした。(二宮一光)

 また、日本書紀の三神に、仏教の如来の三身をあてはめ、国常立尊(くにのとこたちのみこと)が法身、国狭槌尊(くにのさつちのみこと)が報身、豊斟渟尊(とよくものみこと)が応身であるとし、この三神が合一して、密教の本尊である大日如来となるともした。

 また古事記の天神七代は過去七仏に等しく、また北斗七星の各星を表しているとされた。またイザナギ・イザナミ、諏訪神社の上社・下社、なども両部曼陀羅になぞらえられた。

DSC_0764 (449x800) 戸隠山も御嶽山も、いずれも「六根清浄」を唱えながら登る両部神道の修験霊場でありました。六根清浄については、遡回その79 と その80 に記しました。

  写真 : 小西城址の御嶽神社

 昨年の御嶽山の噴火は、辰野町小野「小西城址」にある御嶽神社の碑の前で神事を行い、神仏混淆で「天津祝詞、修祓、降神、六根清浄大祓、献饌、玉串奉奠、般若心経、昇神」で我が御嶽講の例祭(9月23日)を執り行ったことについて記したブログ(遡回その80)がアップされた9月27日(土)のこと。日本ジオパーク南アルプス大会が伊那文化会館で開会式を迎える直前のことでありました。

 

 井上井月顕彰会会長 北村皆雄監督『俳人井月――幕末維新風狂に死す』の「尊王と仏教」に登場する「井月の引かれていたのはそうした(水戸光圀の初期尊王思想のような)仏教に親しい尊王の考えではないだろうか。」という考察に大いに共感を覚えたことについては、遡回その110に記しました。

 明治維新になって廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中で、そんな世の流れと距離を置き、行く雲、流れる水の如く、仏に親しさを感じながら自由に生きた「ほかいびと」の俳諧師、「井月さんのこころ」が見えてきます。

 2015.04.18 雲水の如くに 【井月さんのこころ110】

 コシアブラ天麩羅

今週の結びは、愚良子先生のこの句です。

「春日愚良子句集」から

黄門の草履で青き踏んでみる  愚良子

 

写真 : コシアブラの天麩羅

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