2015.05.23 [ 歴史・祭・暮らし ]
神仏分離令に 【井月さんのこころ115】
幟旗も「豊川吒枳尼天」、蝉が鳴き始めた初夏の木立に読経の声が沁み込んでいきます。
夏木立焼香かぐわし吒枳尼天 青巒
引き続いて、上町公民館へ会場を移して、直会(なおらい)が行われました。
さて、善光寺さんの御開帳とほほ時を同じくして戸隠神社の式年大祭(4月26日~5月26日)が執り行われている歳でもあることは、遡回その109に記しましたが、明日24日(日)に行われる還御の儀をもって一か月に及んだ式年大祭が大詰めを迎えます。
「さわやか信州旅.net」に 戸隠神社式年大祭 について、次のとおり紹介されています。(誤字等は訂正してあります。)
戸隠全山が華麗な神事に沸き立つ式年大祭は、七年に一度(丑と未の年に)行われます。
平安中期まで奥社御祭神の相殿に奉祀されていた中社・宝光社の御祭神が、七年に一度奥社に渡御・御奉告される儀式が本義でした。
奥社が女人禁制・存俗禁制の場だったことから奥社から中社・宝光社へ両祭神が遷祀され、現在は宝光社の御祭神が中社にお渡りになり(渡御)、約2週間後にお還りになる(還御)儀式をもって式年大祭としています。
井月さんは、戸隠山「奥の院」で次のように詠んでいます。
みな清水ならざるはなし奥の院 井月
この句の評釈について、井上井月研究者である竹入弘元氏の「井月の魅力 その俳句鑑賞」(ほおずき書籍)から引用させていただくと・・・、
「戸隠山に詣でて」の題がある。湧き出て溢れる水を感動的に描く。長野県上水内郡戸隠村は長野市に合併した。この山は修験道の霊場として栄えた。
山腹に奥社・中社・宝光社の三社があり、農業神の信仰もあつい。
井月は、元治元年(一八六四)六月から約百日長野に滞在『家づと集』を編集、戸隠神社に参詣している。
(清水・夏)
井月さんが戸隠山を訪れたのは、神仏分離令が出される前、43歳当時のこと。神仏混淆で両部神道の修験霊場であった戸隠山です。
その4年後の明治元年(1868年)、明治政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、神仏分離令を発しました。
平田派国学の影響から神道国教化のため神仏混淆を禁止することとした政府は、神仏分離令により、神社と寺院を分離してそれぞれ独立させ、神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じたほか、神道の神に仏具を供えることや「御神体」を仏像とすることも禁じました。
当初、神仏分離令は仏教排斥を意図したものではありませんでしたが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれました。我が産土神である矢彦神社での様子は、遡回その110 と その111 に記したとおりであり、国学者:倉澤義髄(くらさわよしたか)が扇動し、矢彦神社別当で我が菩提寺であった真言宗矢彦山神光寺は廃寺にされてしまいました。
写真 : 矢彦神社拝殿
しかしながら仏教界の抵抗などを受けた政府は、明治5年3月14日(1872年4月21日)の神祇省を廃止し教部省を設置して、神仏いずれの布教も認めていくことになりました。
戸隠神社のホームページの「戸隠神社について」(関係部分を抜粋)によれば、
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