い~な 上伊那 2つのアルプスと天竜川からなる伊那谷の北部に位置し、雄大な自然に囲まれた上伊那地域。 この地域の自然、食、歴史や地域のがんばる人々など、私たち職員が見つけ、感じた上伊那の魅力と地域の活力を発信します。

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静かな街道と悲しい峠の由来~牛首峠と初期中山道~

こんにちは。魅力発掘探検隊のJKです。
今回は初期中山道が通る「牛首峠」について紹介したいと思います。

江戸時代には多くの街道が整備され、その中でも、東海道や奥州街道など江戸から各地へ向かう「五街道」は、特に重要なものとして整備されました。「中山道」はその五街道のうちの一つで、江戸から信濃(長野県)や美濃(岐阜県)などの内陸を通って京の都へ向かう街道でした。

その中山道ですが、現在のルートを見ると、和田峠から下諏訪を通り、塩尻峠を越えて、塩尻から木曽路へと入っていきます。
しかし、江戸時代初期には現在とは異なるルートを通っていました。岡谷から小野峠を越え辰野町小野(小野宿)を通り、牛首峠を越え木曽路(塩尻市宗賀)に出る道です。これが「初期中山道」と呼ばれる道です。

徳川家康が五街道を制定した翌年の慶長6年(1602年)、幕府勘定奉行大久保長安は、中山道を塩尻を通さず小野を通る道に設定しました。佐渡金山開発などでも有名な長安は、木曽谷の森林開発を促進する目的でこの道を開き、江戸へ陸路で木材を運ぼうとしたようです。
ところが、慶長18年(1613年)に長安が死去すると、大久保家は没落し、元和2年(1616年)頃には、中山道も塩尻峠を通る現在のルートに変更されました。長安が設定した中山道は短命に終わってしまうのです。

そんな初期中山道が、辰野町小野から塩尻市宗賀へ向かう途中にあるのが「牛首峠」です。今回はここを訪ねます。

国道153号線を辰野町から塩尻市に向かう途中の「小野下町」交差点を曲がり、県道楢川岡谷線に入ります。ここからが牛首峠を越える道です。峠に向かって、ゆるやかな上り坂が続きます。
しばらく進むと、一里塚が見えてきます。0722ichiriduka

今は交通量も少なく静かな道ですが、一里塚や多くの道祖神、馬頭観音などが残っていて、かつて人々や物資が往来した街道であったことを今に伝えています。

 

 

 

 

 

やがて民家が見え始め、いくつかの集落を抜けていきます。県道とはいっても、1車線の細い道とカーブが続くので、自動車での走行にはご注意を!

最後の集落を過ぎると、いよいよ牛首峠に近づいていきます。鬱蒼とした森に入っていき、上り坂が終わり切通しになっているところが牛首峠です。

「ここは牛首峠」という小0722ushikubitougeさな看板が立てられています。

 

 

 

 

 

 

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