2015.02.09 [ 長野地域の【自然】 ]
つれづれなる水の流れ ~川中島平の上中堰~
農地整備課の「NN46」です。シリーズ7回目は、先月の「ほっとスタッフブログながの」に載った上中堰(じょうちゅうせぎ)について少し紹介しましょう。
リンク先:https://blog.nagano-ken.jp/nagachi/nagachi/maintain/4229.html
上中堰は、「川中島平」の水田を潤す幹線用水路として大切に維持管理されています。その昔は、ご存知のとおり上杉謙信と武田信玄が戦った「川中島の戦い」の場所であり、大雨のたびに河川が氾濫したので、ほとんどが草だらけの広い野原でした。
この「川中島平」を開発したのは江戸時代初期の慶長8年(1603)から同16年(1611)にかけて、松代藩が犀川の上流側から「上堰」「中堰」「下堰」を造り、新田開発に取り組みました。この事業の中心となって活躍したのが、花井吉成(よしなり)と義雄(よしたけ)父子です。
花井神社をご存知ですか?
花井父子を神様として祀っている神社です。
JR篠ノ井駅の北西約4kmの長野市篠ノ井小松原の中尾山温泉から細い坂道を上った山の中腹にあり、川中島平を眼下に見下ろすことができます。川中島平を拓いた父子を祀っているいい場所です。
▲花井神社の本殿
昨年10月に花井神社の例大祭が催されたので参列させていただきました。正式名を「花井遠江守吉成」「花井主水正義雄」として祀っています。県内には、ほかにも農業用水を開削した先人を神様として祀っているところがあります。
さて花井吉成は、徳川家康の第7子松平忠輝の補佐役を命じられ、忠輝の生母が遠江国で産んだ女を娶り、忠輝の姉婿となります。そして忠輝に従って松代海津城に赴き、その後に海津城代となって遠江守と称しました。この時、交通運輸の便に力をいれるとともに、川中島平の開発にも努力しています。また、裾花川が妻科から七瀬を流れ大豆島で千曲川と合流していたのを、現在の流れに変えた話は有名です。これらの事業を親子2代で取り組んだわけです。
▲花井家の系図(末裔は大阪方面に在住)
今回は上中堰の上流部(取入れ口から上中分水まで)について歩いてみました。
取入れ口は東京電力㈱小田切ダムの国道19号の下にあります。
▲上中堰の取水口
取入れ口からは高松隧道(L=523m)になっていて、下流の一級河川犀川に沿う県道小松原川中島停車場線の横に出て、開水路で流れています。この開水路については、昨年度から県営かんがい排水事業で補修しています。
▲用水路の補修工事現場
▲補修工事完了箇所(ポリマーセメントモルタル塗)
補修工事区間内には水路の歴史を残す遺構がありました。それから、工事現場の下流にはもうひとつ歴史があります。上中堰から右側の神田堰に分水する水門です。
このブログへの取材依頼や情報提供、ご意見・ご要望はこちら
長野地域振興局 総務管理課
TEL:026-234-9500
FAX:026-234-9504