農地整備課の「NN46」です。
現在では、「三水村」と「牟礼村」が合併して飯綱町になっていますが、今回、この「三水(さみず)」についてふれてみます。
「三水」という地名は地図上にはありません。でも、明治22年に芋川、普光寺、赤塩、東柏原、倉井の5か村と川谷村の一部が合併して、「三水村」が誕生しています。この村名は、この地域が昔から農業用水が不足がちで、長い年月をかけ先人の偉業により、鳥居川から取水する3本の用水によって、地域が潤っていることから「三水村」と命名されました。3本の用水とは、「芋川堰」、「倉井堰」、「普光寺堰」を指します。
芋川堰の開削は、天正8年(1580)または慶長8年(1603)に清水戸右衛門によってなされました。鳥居川の戸草(現在の信濃町古間戸草)から等高線に沿うように開削して、芋川平に導水しています。さらに寛文10年(1670)頃に、飯山藩水奉行野田喜左衛門が水路を開削して延長し、総延長7里19町の長い用水路を完成させています。今の距離に換算すると約29.6kmになります。
▲芋川堰の頭首工
倉井堰の開削は定かではありませんが、水利慣行では倉井堰が上位になっている伝承があり、芋川堰よりも鳥居川下流ですが、古くから取水していたのではないかと想定されています。また芋川堰と同様に野田喜左衛門が寛文10年(1670)頃に水路を開削して、風坂や上赤塩まで延長したので、上赤塩では喜左衛門を祀る七面社を建立しています。
▲倉井堰の頭首工(対岸はJR信越本線)
普光寺堰は、普光寺山に水源をもつ鐘山堰や二反田堰などの縦堰(等高線に直角に流す水路のこと)と交差する横堰(等高線に並行に流す水路のこと)で、鳥居川のさらに下流から取水しています。普光寺堰は、古い縦堰を連携する横堰として、幹線水路の役割を果たしています。
▲普光寺堰の頭首工
このように、旧三水村には大切な用水路で、村の名前の由来にもなっている3本の水路ですが、それぞれの間では、昔から厳しい水利慣行が決められており、これが農業用水の難しいところでもあります。しかし、ホタルが乱舞する場所もあり、田園の環境豊かな用水路として維持されてきています。
今年は、昨年と同様に降雨が少なく水不足が心配されていますが、先日訪れた際は、鳥居川の水量が豊かで県営事業や災害復旧事業で整備された頭首工からは、安定した水量が取り入れられていました。
ここで、ちょっと足を延ばして、芋川神社に立ち寄ってみました。
写真左から、「御用水芋川堰守」(弘化4年)、「野田喜左衛門」(天明6年)、「南無七面大明神」の石碑がありました。一般的には女性を祀ることが多い如意輪観音ですが、「野田喜左衛門」が祀られていました。
隣には、三水村発足直前に建立された「三村用水芋川堰新開碑」(明治22年)、「三ヶ村用水芋川堰殉難者之碑」(昭和3年)もありました。
芋川神社まで石段を登ると、本殿の後ろの境内には芋川堰が流れていました。
以上、昭和63年三水村発行の「村制百周年記念 三水村のあゆみ」を参考に現地を歩き、つれづれに農業用水のことを書いてみました。
【参考】
「清水戸右衛門」
天文12年(1543)~元和4年(1618)川中島の役のあと、上杉景勝に仕え塩崎に居住。測量に通じており、主命により芋川堰を開削し新田を開く。聖川の氾濫を抑えるために両岸に堤塘を築き、石川から塩崎に疎通させる。
「野田喜左衛門」
寛永8年(1631)~元禄8年(1695)飯山城主松平遠江守忠倶に仕え赤塩に居住。藩では治水、利水、造田に力を入れていたので、喜左衛門を起用。芋川堰の開削、隧道・石樋・木樋を使った延長13町の飯山の三十八箇郷堰、そのほか倉井堰、船所堰、今井堰、神代日影堰等を開削して新田造成に貢献した。
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