2014.04.26 [ 歴史・祭・暮らし ]
散りゆく桜に【井月さんのこころ58】
井月さんのこころ シリーズ その58
世の中から忘れ去られていた井月さんの俳句を苦心して集め、初めて世に出した下島空谷(勲)さんが記した「略伝」には、次のような記述がでてきます。
私の想像が仮に無用の空想だとしても、彼が幼少時代から非常な学文好きであったことだけは事実らしい。――学文好き――思索家――詩人の特筆 ・・・・と云ったようなことから、芭蕉に因って其の本然性が目醒めはじめ、終に彼の生きる道とまでに進んだ結果が、『奥の細道』の「いつの年よりか片雲の風にさそはれ漂泊の念やまず・・・」の実現になったのではなかろうか。何故幼少時代に学文好きだったかは、彼の家出の年齢が三十歳前ではなかろうかと思う考察から推して、あの時分にあれ程の学殖、書道練磨を得たことだけでも、想像に難くないからである。
写真:桜 満開を過ぐ (高遠城址公園H26.4.21)
そんな高い学識・教養を持つ井月さんが、古(いにしえ)の歴史に思いを馳せながら、散りゆく桜を詠んでいます。
詠史
花吹雪御簾(みす)をかかげる采女(うねめ)かな 井月
この句の背景にある史実とは、清少納言の『枕草子』のようです。
思い出しました。そうです、学生時代に何度も試験に出された清少納言の有名な自慢話がありましたね。
雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子まゐりて、炭櫃(すびつ)に火おこして、物語などして集り候ふに、「少納言よ、香炉峰の雪いかならむ」と、仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば、笑はせ給ふ。
人々も、「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそよらざりつれ。なほ、この宮の人には、さべきなめり」と言ふ。
10世紀末、一条天皇の御代に中宮「定子」に仕えていた采女の清少納言。
中宮が清少納言に「少納言よ、香炉峰の雪はどうだろう」と問いかけた。「香炉峰の雪」とは、白楽天の『白氏文集』にある「遺愛寺の鐘は枕を欹てて聴き、香炉峰の雪は簾を上げて見る」という漢詩に掛けてあり、清少納言が機転をきかして御格子を上げさせて御簾を高く上げて、雪が見られるようにした。中宮は、お笑いになられた。女房たちも、「香炉峰の漢詩(七言律詩)ぐらいは知っているが、とっさに実演するなど思いも寄らなかった、やはり清少納言は中宮にお仕えするのにふさわしい女性だと讃えた。
ほかにも、
楠正行(くすのきまさつら)
散しほの健気(けなげ)にみゆる桜かな 井月
この句の背景にある史実は、14世紀の後村上天皇の御代、『太平記』四条畷(しじょうなわて)の戦い(1348年)に散った楠正行(楠正成公の嫡男・小楠公)。
南北朝時代、南朝の楠木正行公は三千の兵で、北朝・足利方の高師直(こうの もろなお)率いる八万の兵に挑むが、多勢に無勢、善戦するも敗れて、ついに弟・正時公と差し違え自刃して散る。時に正行公23歳。
写真:枝垂れ桜 満開 (光前寺H26.4.23)
そして更に、時代は少し遡って平安末期の12世紀。
打払ふ鎧(よろい)の袖や花吹雪 井月
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