2015.09.07 [ 歴史・祭・暮らし ]
樋口次郎兼光という人
皆様こんにちは。伊那建設事務所のGです。
辰野町にある樋口次郎兼光のお墓に行ってきました。
皆様、樋口次郎兼光という人物をご存じでしょうか?
お恥ずかしながら、私はこのお墓を訪れるまで知りませんでした…。
兼光は木曽義仲の四天王の一人と言われた武将だそうです。
元々は木曽谷の豪族中原家の出身ですが、元服後、辰野町樋口に居を構え樋口を名乗ったことから、この場所に碑が建てられました。
【樋口次郎兼光と木曽義仲】
時は平安時代末期。華やかな貴族社会から、後の鎌倉時代に繋がる武家社会へとシフトしていった時代でした。そんな時代に、樋口次郎兼光は、木曽の豪族「信濃権守中原兼遠」の子として生まれたのです。
一方、木曽義仲は源義賢の次男として生まれました。有名な「源氏」の一門です。
しかし義仲の父は実兄との対立の中で討たれてしまいました。義仲も殺害されるところでしたが、信濃権守中原兼遠が木曽に匿ったことで九死に一生を得、そこで樋口次郎兼光と出会い、乳兄弟として共に育つこととなったのです。
木曽で成長した義仲は、「以仁王の令旨」により兼光を従えて挙兵しました。そして平氏を破って入京し、その後征東大将軍を名乗るも京の公家社会から疎まれ、鎌倉軍との戦いで戦死しました。兼光はその戦いで捕らえられ、斬首となりその生涯を終えています。時に兼光35歳。若すぎますね…。
木曽義仲の忠臣として歴史に名を残した兼光。一説には、あの直江兼続は兼光の子孫だとか。
兼光が亡くなってから約700年後の明治時代。兼光のお墓と同じ敷地内に、山県有朋によって巨大な「彰忠碑」が建てられました。静かな迫力を醸し出すこの石碑は、彼の忠誠心が色あせることなく人々の記憶に残った証のように感じられます。
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