2017.07.04 [ その他 ]
「六川長三郎と塩沢堰」の講演会に参加しました!
こんにちは、農地整備課ソルトリバーです。
6月3日(土)に立科町西塩沢公民館で行われた「六川長三郎と塩沢堰」の講演会に参加しました。
両角正芳氏の講演会の様子
「塩沢堰」とは、1646年(正保3年)に六川長三郎勝家が蓼科山の「弁天神(べていじん)」と「水出(みずいで)」の水源から用水路を開削し、通水した延長約55kmの農業用水路です。
当日は、元立科土地改良区事務局長の両角正芳氏による、六川長三郎勝家の生い立ちやその時代背景、水源の発見及び堰づくり、更には、六川長三郎を代々襲名してきた12代六川長三郎千昌による近代農業に向けての農業基盤整備と利水安定対策などについて聞くことができました。両角さんは、六川長三郎勝家の生きた時代について、当時の戦国武将(武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、真田昌幸)の時代と比較するなど、大変わかりやすく説明していただき、個人的にもガッテン!ガッテン!(某放送局の某番組の納得表現)でした。
12代六川長三郎千昌の妻いくさんから花束を受け取る講師の両角氏
「塩沢堰」についてもう少し説明します。六川長三郎勝家は、「新田づくり」、「米づくり」により塩沢地域を発展させたいと考え、用水確保のために水源を探していました。そこで、六川長三郎勝家が以前お世話になっていた長久保新町(長和町)の翠川家に相談したところ、武田信玄が信濃(長野県)へ入るときに使ったと言われている蓼科山の道沿いに水源があるとの情報を得て、蓼科山中の道筋を探したところ、いくつかの水源を発見することが出来ました。その水源が「弁天神」と「水出」であり、2箇所の水源から等高線上を平行に、または、何箇所もの谷を越え塩沢堰を引きました。特に上流部の蓼科山付近の山腹の水路を歩くと、用水を開削し新田を開きたいという六川長三郎勝家の熱い熱い想いが今でも伝わってきます。
「弁天神」の湧水 「水出」の湧水
今回の講演会に参加させていただき、普段何気なく当たり前のように流れている農業用水路の歴史や地域の特徴を学ぶことで、先人の想いに共感するとともに、それを次世代へと引き継いでいくことの重要性を改めて認識することができました。
以上、紹介した塩沢堰は12代六川長三郎千昌の時代【1961年~1971年(昭和36年~昭和46年)】に幹線用水路として整備しましたが、今では老朽化が進み、水漏れもあり、施設を管理する土地改良区や地元の方々ともに、補修や更新の事業化に向けて、微力ながら支援を行っていきたいと思います。安定した農業用水を確保し、いつの世代までも作物が豊かに実ることを祈念して!
「六川長三郎と蓼科の水」の案内看板
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