こんにちは!計量女子です。
松本地域振興局「来て!観て!松本『彩』発見」内のブログなのに松本地域の話題には一切触れないことに定評がある計量検定所のブログですが、今回は松本地域どころか長野県を飛び超えて東京都内からお送りしています。
(※いきなり本題から大きく外れますが、皆さんは東京といったらまずは何を思い浮かべますか?
計量女子は、首都高速でちょいちょい見かけるこの看板です。
今回上京したら「どっちが兄?」というクイズ形式の看板が増えていたので笑ってしまいました。)
本題に戻ってタイトルにある「江戸秤座(はかりざ)」という言葉を説明する前に、特定計量器の製造制度について少し触れたいと思います。
現代日本では、特定計量器の製造事業を始める際には、工場または事業場所在の都道府県知事(電気計器は地方経済産業局長)を経由して経済産業大臣に所定の届出をすることが必要です。
法令に基づく基準を満たす必要はありますが、逆に言えば法基準を満たしていれば誰でも特定計量器を製造することができます。
特定計量器を製造する場合(経済産業省産業技術環境局計量行政室)
(別ウィンドウで外部サイトが開きます。)
しかし、明治8年(1875年)に度量衡取締条例が発布される以前の我が国では、時の権力者が認めた2つの家の者以外は秤(はかり、質量計)を製造することができませんでした。
東の33か国の秤は「守随(しゅずい)家」、西の33か国の秤は「神(じん)家」が幕府からの特別な許可を得て、製造だけでなく秤の修理や秤改め(検定検査)にも関わっていました。
なぜ幕府はこのように厳しく秤の管理を行っていたのか?
それは、秤は経済活動の要の道具(商取引の際に支払う金銀の質量を計るための秤)であったため、幕府の目の届かないところで偽秤を作ったり使ったりされたら市場に混乱が起きてしまうからです。
(3年前に計量女子が書いたブログによれば、偽秤は作ることはもとより使った者にも死の裁きがくだったようです😱)
守随家や神家により管理されていた秤の一切を取り仕切る場所を「秤座」と呼びました。
今回計量女子が見に来たのは、江戸後期から明治8年の度量衡取締条例発布の時まで東国33か国を掌握していた守随家の秤座があった場所です。
東京駅八重洲北口から徒歩10分、老舗百貨店が立ち並ぶ場所の一角に
趣のある樹木に囲まれ、ひっそりとその石碑はありました。
江戸秤座のあった場所は民間ビルとなっており、当時の面影は何も残されていません。
しかし、江戸時代の度量衡に関する重要な史跡として中央区民文化財に登録され、この地に秤座があったことを示す石碑が立てられています。
ということで、今回は江戸秤座の跡地を紹介しましたが、江戸を紹介して京都を紹介しないのは不公平ですね。
年が明けたら京都秤座のあった場所を探しに行きたいと考えていますが、一体いつになるのやら。
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