里山辺の林城山麓の広沢寺(こうたくじ)に江戸時代初期に松本藩主を務めた小笠原秀政と世子忠脩(たたなが)のお墓があります。
参道入り口の冠木門を抜けると趣のある参道が続き、その上に堂塔伽藍が広がります。本堂の裏手に回って山に登ると小笠原父子の五輪塔が並んでいます。父子は元和元年(1615)大阪夏の陣に出陣し、天王寺口の戦いで討ち死にしてしまいました。別のお寺に葬られましたが、後に小笠原家縁のこの寺に改葬されたのです。
小笠原家は中世に信濃の守護に任じられた名門です。鎌倉時代の末期に伊那から府中(松本)に進出し、井川に居館を築きました。井川は田川と薄川が合流する地帯です。
水害の影響もあり室町時代の中期、林に山城を築きここを本拠にして周囲に深志城などを配したのです。しかし、武田の攻撃を受けて林城は落城し、城主小笠原長時は追放されてしまいました。武田滅亡後、子の貞慶(さだよし)が33年ぶりに父祖縁の地である深志城に入り、この地を「松本」と改めたとのことです。貞慶の子秀政は古河に移った後、幕藩体制の下で松本城主になりました。その後小笠原氏は明石を経て小倉藩15万石譜代の重鎮として明治維新を迎えました。小笠原氏と松本の長い歴史に育まれた宿縁を感ぜざるを得ません。
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