2014.10.04 [ 自然・山・花 ]
アキアカネと蕎麦の花に 【井月さんのこころ80】
二日目は特別公開中の東寺で立体曼荼羅の佛像などを拝観し、午後には茂木健一郎氏の講演をお聴きし、夕食は「京の夏の川床料理」。少し肌寒かったですが、洛北の貴船の川床で瀬音を聴きながら子持ち鮎の焼き魚などを堪能しました。
貴船にて
子持ち鮎子育て仕舞う貴船の瀬 青巒
三日目は、醍醐寺で豊臣秀吉が自ら設計したという三宝院の見事な庭園などを観た後、宇治の平等院を訪ねましたが、日曜日で鳳凰堂の内部拝観は2時間待ちとのことなので諦め、鳳翔館という博物館と庭などを観て、伏見へ移動し坂本龍馬ゆかりの寺田屋辺りを歩きました。
伏見にて
アキアカネ百石舟の艫(とも)を追う 青巒
慶応2年1月(1866年3月)薩長同盟を成立させて伏見へ戻った坂本龍馬が、伏見奉行所の刺客に襲われた『寺田屋遭難』は龍馬31歳のこと、その頃井月さんは45歳。
難を免れ薩摩へ逃れた龍馬は、翌、慶応3年に『船中八策』を起草し、土佐藩を動かして10月『大政奉還』が成し遂げられるものの、再び11月『近江屋』で刺客に襲われて暗殺されてしまったのでした。
そこから数年遡る元治元年(1864年)に井月さんが43歳で編んだ『家づと集』には、次の連句が載せられています。(遡回その30を参照ください。)
来る年も巣は爰(ここ)ぞかし行乙鳥(つばめ) 梅塘
花にこころの残るそば畑 井月
梅塘さんは、この『家づと集』の序文を書いている善光寺宝勝院住職です。
そして、その巻末句は「しほらしくもいとなつかし」の詞書に続けて
ちりそめてから盛りなりはぎの花 井月
2013年10月12日 落ち栗のように【井月さんのこころ30】
https://blog.nagano-ken.jp/kamiina/life/218.html
『家づと集』を土産に故郷の長岡へ帰ろうとした(と思われる)井月さんですが、明治維新の動乱で朝敵となって多くが失われてしまった故郷・長岡には帰ろうにも帰ることができなくなってしまったのでしょう。
もし、坂本龍馬が暗殺されなかったならば、明治維新のあり方も変わっていた可能性が大きく、あるいは井月さんの生き様や散り方も違っていたのかもしれません。
そんなことを思いながら、数々の世界遺産の寺社や国宝・重文の佛像にも巡り会うことができた京都の旅でした。
万歳三唱:米田JGN理事長(糸魚川市長)
今週の結びは、愚良子先生が詠んでいるこの句です。
「春日愚良子句集」から
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