2016.03.19 [ 自然・山・花 ]
檀林の梅に 【井月さんのこころ158】
井月さんのこころ シリーズ その158
井月さんが憧れた松尾芭蕉(1644~1694)とも交流があり、江戸中期の元禄時代に活躍した上伊那に縁が深い野口在色(1643~1719)という俳人がいます。
平成元年から上伊那教育会を中心にして野口在色の研究が開始され、平成22年12月に中学生にも読めるよう分かり易く紹介した「-郷土の文化を拓いた俳人-野口在色」が出版されました。
二百ページほどのこの冊子は、上伊那郷土館専門委員文学班の熱心な先生方による労作であり、顧問として古文書の判読などに当たられた竹入弘元先生の功績による大きな成果品であるとお聞きしております。
野口在色は、井月さんよりも更に知名度が低いのかもしれませんが、松尾芭蕉と競い合うほどの博識の文化人であったことは確かなようであり、現在の静岡県磐田市草崎の生まれで、江戸を中心にして材木商を営み、妻の実家がある現在の箕輪町木下に居を構え、俳諧の種を伊那の地に蒔いた、上伊那を代表する一流の文化人であったようです。
以下、この「-郷土の文化を拓いた俳人-野口在色」(上伊那教育会編)から要点のみを掻い摘んで紹介させていただきます。
蕉風俳諧の前に西山宗因を最高指導者とする檀林俳諧が存在し、宗因の弟子であった在色の江戸における活躍は目を見張るものがありました。
延宝三年(1675年)、大阪から江戸へ下向した宗因の発句を初めに据えて句会を興行し、「檀林十百韻(だんりんとっぴゃくいん)」が刊行され、在色の名声が高まりました。
時に、在色33歳。(在色が母方の伯父・野口又勝の妻の甥・斎藤利良の娘みつと結婚して、現在の箕輪町木下に居を構えたのは、延宝七年37歳の頃とのこと。)
この頃、在色より一歳年下の芭蕉は、まだ貞門派の宗匠・北村季吟門下で「桃青」と名乗って俳諧の宗匠になろうとしていた頃で、在色が残した『誹諧解脱抄』(1718年)には、次のような内容で芭蕉翁が批評(回顧)されているとのことです。
近頃「桃青」と名乗って江戸に住み、俳諧の宗匠になろうと、盛んに句会を催しています。
この私が江戸の俳諧師に紹介して師匠となることができたんですよ。この「桃青」という人は、その後隠者となって全国を旅していると聞いています。特に俳諧の師匠を訪ねて勉強する訳でもなく、連俳(俳諧の連歌)の技能も未熟です。句自体は品がよいが、多くの作品は連歌のまねごとです。
芭蕉翁が亡くなったのは、元禄七年(1694年)十月、51歳。野口在色が亡くなったのは、『誹諧解脱抄』を書き残した翌年の享保四年(1719年)九月、77歳でした。
当時の「俳諧=連句」は数人の連衆(仲間)が集まって、五・七・五の三句十七音節からなる長句と、七・七の二句十四音節からなる短句を交互に連鎖する形式の詩文芸を言いました。発端の長句を「発句(立句)」、二句目の短句を「脇句(脇)」、三句目の長句を「第三」、四句目以下を「平句」、最後の短句を「挙句(揚句)」と呼びます。「百韻」とは、発句(最初の五・七・五)から挙句(最後の七・七)まで、一巻に百句を詠むことでした。
檀林十百韻(だんりんとっぴゃくいん)は、西山宗因の発句に雪柴、在色、一鉄、正友、志計、一朝、松臼、ト尺、松意の九名(九吟)が春夏秋冬を順に巻いた百韻十巻(壱千句)です。紙片の都合上、巻頭に掲げられている百韻のうち「第三」の在色句を含む四句並びに十巻目の巻末二句(九九九句目と最後の「挙句」)のみを紹介します。
されば爰(ここ)に檀林の木あり梅の花 梅翁(宗因)
世俗眠(ねむり)をさますうぐひす 雪柴
朝霞たばこのけぶり横おれて 在色
駕籠かき過るあとの山風 一鉄
( 5句目から998句目まで略 )
玉垣の花をささげていのり事 雪柴
女性(にょしょう)一人広前の春 一鉄
梅に鶯、その声に寝覚めて煙草を一服、駕籠かきが通り過ぎて乗客がふかした煙草の香りが漂って………と繋がっていく、この連句のおもしろさ。
この発句の「檀林」には、仏教の学問所・僧侶の養成所といった意味があります。また、挙句の「広前」には、神の御前、神社の庭といった意味があります。
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