2016.03.12 [ 歴史・祭・暮らし ]
春雨に鯉はねる頃 【井月さんのこころ157】
長野県教育委員会メールマガジン-平成24年(2012年) 3月号- から
「立川流建築に学ぶ」
南信は文化財の宝庫である。何日か文化財パトロールに同行した。
印象に残ったのは立川流建築群。そのひとつ、茅野市にある白岩観音堂は、現存する立川流建築では最古のもの。もうひとつ、駒ヶ根市光前寺の三重塔。南信濃に残る唯一の三重の塔で、いずれも県宝指定である。
ちょうど昨年は、我が産土神である信濃国二之宮矢彦神社の御柱祭の歳であったが、辰野町小野に鎮座する矢彦神社も、拝殿・回廊・神楽殿などが県宝指定で、立川親子二代によるもの。拝殿は龍や獅子などの彫刻が見事で、初代富棟39歳(1782年)の作。出世作でもある諏訪大社下社秋宮幣拝殿の2年後に完成。そして神楽殿は、木鼻の獅子などの彫刻が拝殿に比べて形が小さく地味で、二代目が父親の顔を立てるため簡素に仕上げたものだと言われている。「幕末の左甚五郎」と呼ばれ、幕府から内匠(たくみ)の称号を許された富昌61歳(1842年)の作である。
同様に、華麗な彫刻の諏訪大社下社秋宮幣拝殿は、初代富棟が37歳の年に残しているが、半世紀後、二代富昌はそれに調和させ、かつ、それを引き立てるべく「彫刻なし」の荘重な三方切妻の秋宮神楽殿を54歳で完成させている。
富昌の彫刻で秀逸なものは、立川流の総力を挙げ8年の歳月を掛けてほぼ同時期に完成させた諏訪大社上社本宮幣拝殿に見られる。
これらの大社建物は、いずれも国の重要文化財に指定されている。
「簡素」と「華美」の両端の美意識を極め、南信にとどまらず全国の寺社や山車彫刻に花開いた信州諏訪発の優れた文化である。
また、これら神楽殿にみられる「謙虚さ」の中には、親から子へ、師から弟子へ、生きた道徳心や向上心が、技術と共に引き継がれ、伝統が生み出され、文化として育っていく「真の学びの心」を、そして師弟の絆を大切にし、寺社建築を文化の域にまで高めた諏訪立川流という職能集団が輝いた時代の「前向きなエネルギー」を感じとることができる。
人間の成長も社会の活力も、その元は「学びの姿勢」にある。このような謙虚な学びの姿勢こそが今般の教育基本法改正にも通ずる「和魂」の神髄でもあろう。
謙虚さを忘れ去った社会は、学びを失い進歩が止まる。
3月10日は、井月さんの祥月命日「井月忌」でした。
井月さんは、明治十九年十二月某日、その高烏谷神社の麓、東伊那の伊那村の路傍乾田に瀕死の状態で倒れているところを発見され、村人によって戸板に乗せられて、火山峠を越えて隣村の南福地へ運ばれ、一旦は河南村の六波羅霞松宅へ担ぎ込まれ、更に三峰川を越えて美篶村(現在の伊那市美篶)の太田窪、塩原折治(俳名:梅関)宅に届けられて越年し、明治二十年二月十六日(新暦3月10日)に六十六歳の生涯を閉じたのでした。
臨終に当たって、友人の六波羅霞松の求めに応じて認(したた)めたのは、次の句でした。
何処やらに鶴(たづ)の声聞霞かな 井月
遡回その7において紹介した井月さんの代表句であるこの句には、幕末の若書きが残されており、辞世ということではないことは、その評釈で竹入弘元先生が述べておられます。
2013年4月18日 六道に霞たなびく頃【井月さんのこころ7】
井月さんらしい辞世の句といえば、こちらのふたつ。
闇(くら)き夜も花の明かりや西の旅 井月
涅槃より一日(ひとひ)後るる別れかな 井月
そのいずれについても、遡回その4とその104で紹介しました。
2013年3月27日 涅槃会・その如月(きさらぎ)の望月の頃【井月さんのこころ4】
2015年3月7日 早春の井月忌に 【井月さんのこころ104】
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