2013.04.18 [ 食・農・旅 ]
六道に霞たなびく頃【井月さんのこころ7】
井月さんのこころ シリーズ その7
幕末、明治維新を遡る20年前、井月さんが伊那にやって来る10年ほど前、そして、ペリーの黒船艦隊が日本にやってくる数年前の話になります。
嘉永元年(1848年)高遠藩の内藤家第7代藩主 頼寧(よりやす)公の命によって末広村(現在の伊那市美篶末広)一帯の開墾が行われました。
そして、嘉永4年9月六道の堤が完成しています。
井月さんの終焉の地である太田窪に程近いこの堤辺りは、新たに水が引かれ開田されて間もない頃で、実りが豊かになり、井月さんにとっても居心地がよい、お気に入りの場所になっていったことでしょう。
この堤の上には、井月さんが詠んだ「どこやらに鶴(たず)の声聞く霞かな」の句碑があります。
井月碑「何処やらに寉(たず)の声聞く霞かな」
この句碑はこの地域では一番古い井月句碑で、昭和15年に美篶小学校裏の太田窪の路傍に建立され、道路拡張により昭和42年に六道の堤に移されたものだそうです。
遠くに望む二つのアルプスに抱かれて霞たなびく、水が豊かになった美篶の郷。
満開の桜の下に立つ句碑が、幕末から明治にかけて拓かれた美しい農村風景を鮮やかに伝えてくれています。
六道の堤についてはこちらから。
何処やらに鶴(たず)の声聞く霞かな 井月
以下、この句の評釈について、井上井月研究者である竹入弘元氏の「井月の魅力 その俳句鑑賞」(ほおずき書籍)から引用させていただくと・・・、
幻想的な、井月の代表句。臨終の前、俳友霞松の乞いにこの句を書いた。それで辞世だとも言われるが、実は幕末中川村四徳に小松桂雅を訪ね、句帳に書いた若書きがある。よって、辞世ではないこと、また、鶴は、堂津と変体仮名で書いてあり、たずと読んだことが分かる。この句の碑が、河南六波羅松市氏近く、美篶六道堤、東春近小松彰一氏宅、高遠竜勝寺、長岡市蒼柴神社に立つ。
(霞・春)
さて、高遠藩挙げての六道原新田開発。そのためには、かなり上流から水を引いてくる必要がありました。
取水地点は、三峰川支流の藤沢川を遡った栗幅で、弥勒・的場・鉾持・芦沢・笠原の各村を通って、約10キロメートルの用水路「六道井」を造ることになりました。
途中の難所は、猪鹿沢(いろくざわ)の谷越えと鉾持桟道(ほこじさんどう)の崖でした。
猪鹿沢は石垣を組んだ水路橋で谷を渡し、最大難所の鉾持桟道の崖は300メートルにも及ぶトンネルを人力で掘ったのだそうです。
六道の堤も、くわで掘り起しモッコで運び出して堰堤を築き、胴突き石で底を突き固めていく人力による大工事であったようです。まさに、農の礎(いしずえ)ですね。
桜のシーズンも終わりに近づきました。
井月さんも、あちこち歩き回って ややお疲れの様子。
草臥(くたびれ)の出るやさくらのちる日より 井月
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