い~な 上伊那 2つのアルプスと天竜川からなる伊那谷の北部に位置し、雄大な自然に囲まれた上伊那地域。 この地域の自然、食、歴史や地域のがんばる人々など、私たち職員が見つけ、感じた上伊那の魅力と地域の活力を発信します。

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達磨の教えに 【井月さんのこころ148】

井月さんのこころ シリーズ その148
 休戸耕地総代の年末の仕事は、前回記した公民館の鏡餅や注連飾りのほかにも、竈荒神様の御札配りがあります。
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 荒神様(こうじんさま)は、竈(かまど)の神様で、台所の神棚へ「三柱大神」の御札と3本の御幣を祀ります。かつて暦年の役員任期であった頃は、新年に新総代が挨拶がてら配っていたのだそうですが、現在では年末に配ることが慣例になっています。27日(日)朝から各戸(52戸)へ初穂料千五百円をいただきながら配り、30日に矢彦神社へ年末の参拝に伺い、宮司さん宅へお届けしました。

 大晦日には、雪がうっすらと積り初めている中を祭林寺へ除夜の鐘を撞きに行きました。
 方丈様が般若心経を唱えて撞き初めした後、9番目に撞かせていただきました。
 消災妙吉祥陀羅尼(しょうさいみょうきちじょうだらに)を唱えて、上伊那地域・小野地区・休戸耕地が平穏な年を迎えられるようにと、そして地域・職場・家族が健康に過ごせる一年になるようにと願って撞き、申の根付をいただいた後、同様に本堂で合掌して祈念し、金の達磨を買い求め、般若湯をいただいて、辻地蔵尊へもお参りし、家の玄関に2016年元旦午前0時ジャストに帰り着きました。

 1日は、例年どおり雑煮を食べ屠蘇をいただいて、公民館の国旗掲揚塔に日の丸を揚げ、祭林寺へ年始の挨拶に行き、午前10時から隣組の新年会へ出席しました。午後には、かやぶきの館で初湯に浸かってきました。
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 かやぶきの館の館内の壁に「父尉(ちちのじょう)」などのお面が飾られていました。

 前回その147で三番叟(さんばそう)(子孫繁栄を祈る「父尉」、天下泰平を祈る「翁」、五穀豊穣を祈る「三番叟」)のことを記しましたが、父尉の面に「父尉は現在では翁の特殊演出のときにのみ使用される」との説明がされていました。

 11年目を迎えた我が家の太陽光発電の元日9時のメーターは、左43,356KW、右46,973KWの合計90,329KWで、昨年一年間の発電量は約6,600KWでした。大雪の影響で発電量が少なかった一昨年の約6,800KWを更に下回り、日照時間の少なさと経年劣化の影響が表われているものと思われます。

 2014年1月11日 人の日に【井月さんのこころ43】

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 2日は、芋汁御飯で朝食を済ませ、家内と「スターウォーズ」の映画を観に岡谷スカラ座へ、3Dの140分の話題作は見応えがありました。産土の矢彦神社に初詣。
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 3日は、この原稿や新年の挨拶原稿等を書きながら、恒例となっている筆初めの仏画を数枚描きました。遡回その44の再掲句。

 土や木や石や金にてつくるより 仏につくれ人の心を  詠み人知らず
 筆初むる南無南無南無とありがたや  青巒

 2014年1月18日 読書始めの頃【井月さんのこころ44】
 2015年1月10日 年の初めに 【井月さんのこころ96】

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 達磨(だるま)に目入れをして、仏画の一枚に達磨大師が説いた「廓然無聖(かくねんむしょう)」の禅語を。
 この禅問答とは、中国南北朝時代の6世紀に南朝「梁」(502~557年)の初代皇帝蕭衍(しょうえん・武帝:在位502~549年)がインドから訪れた達磨大師を謁見した際に、武帝が「如何なるか是れ聖諦第一義」と問うた答えが「廓然無聖(かくねんむしょう)」であったとされます。意味は、「カラッと晴れ渡った青空のように、聖も何も無い。」
 武帝が「朕は数え切れないほどの寺を造り、経を写し、僧を度す。如何ほどの功徳があるか。」と問うと、達磨大師は「無功徳(功徳など無い。)」と答えたとされます。「朕に向かって、そんなことを云うお前は何者だ。」と言った、これを理解できなかった武帝を見放すように達磨大師は「識(し)らん。」と言って、揚子江を渡り、魏に去ってしまいました。熱心な仏教信者であった武帝がこのことを高僧・誌公和尚に問い直して、己が不明であったことを悟って後悔し、使いを派遣して達磨大師を呼び戻そうとしましたが、戻すことは叶いませんでした。
 梁時代に「皇帝菩薩」とも称された武帝のもとで栄えた南朝仏教がやがて、朝鮮の百済を通じて6世紀中頃に日本へもたらされ、曽我氏・物部氏の崇仏・廃仏論争を経て、飛鳥時代に聖徳太子など大和朝廷の庇護のもとで栄え、奈良時代の鎮護国家の思想による国分寺建立などへと繋がります。
 達磨大師は中国禅宗の開祖となり、その教えはやがて鎌倉時代に栄西禅師や道元禅師などによって日本に持ち帰られ、武家や庶民の仏教として広まっていくことになります。

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