2014.02.28 [ 職員のみつけた情報コーナー歴史 ]
赤松小三郎を想う(外伝)~歴史を作った上田藩主~
地域政策課のHです。
赤松小三郎をブログで取り上げてきました(その1、その2、その3、その4)が、この記事を書きながら、下士であった赤松が脱藩もせずにその才能を開花させられるだけの自由な動きができたのは何故なのか疑問になりました。
それには上田藩を知る必要があると思い立ったのです。
実は地域の皆さんとお話している際に、今の上田があるのは真田氏よりも松平氏が藩主だったお陰だという話を聞いたことを思い出しました。
そこで、赤松が藩士だった時の上田藩主 松平忠固(ただかた)公とはどのような人物だったのか、調べることにしましたが、実はこの忠固公自身が赤松にも増して幕末の日本を動かす重要な役割を果たしていたのです。
松平忠固公は姫路藩主 酒井忠実の子として生まれ、文政12年(1829)年に5代目上田藩主 松平忠学の養子に入りました。
忠固公は養父の忠学公の隠居に伴い家督を継いで6代目上田藩主となり、その後、幕府の奏者番、寺社奉行加役、大阪城代となり、嘉永元(1848)年にはついに老中に昇進します。
上田藩主居館跡(現在の上田高校、表門や土塀等は寛政元年(1789年)建築のものが現存)
老中に就任した時は黒船が来航しペリーが開国を迫った時期で、幕府にとって大変革を迎える時期であり、幕府内では攘夷を求める声と開国を求める声が錯綜し、大揺れに揺れます。
忠固公はこの際、開国は避けられないと感じる一方、英国などヨーロッパの列強諸国がアジア諸国を次々と植民地化していたことから日本も植民地化されかねないと判断して、比較的穏健だった米国を後ろ盾にしようと通商条約を結ぶことを急いだといわれています。
一方、将軍の後継争いも絡んで水戸藩主 松平斉昭公を初めとする一橋派はこの動きに強く反対し、忠固公を老中職から一旦引きずり下ろすことに成功します。
しかし、安政4年、米国から修好通商条約の調印を強く迫られた幕府は開国派の雄であった忠固公を再度老中に任命します。
この時、井伊直弼が大老に就任しますが、これも忠固公が画策したものと言われています。
孝明天皇は攘夷を望み、外国と交戦も止む無しとしていましたが、忠固公は幕府の弱体化を感じていたことから幕府が主体的に判断することが大事だとし、日米修好通商条約の調印にあたっても、勅許不要論を主張したことで知られています。
こうして天皇の勅命を得ずして日米修好通商条約が締結されましたが、結局、これが原因で大老の井伊直弼にその責任を押し付けられる形で再度老中職を追われ、蟄居を命ぜられます。
この後、井伊直弼による「安政の大獄」が行われるのはいうまでもありません。
忠固公は米国に渡ろうとして閉牢された吉田松陰や蟄居を命ぜられた佐久間象山を開放し、再度、活躍の場を与えようとしたとされています。
また、日米修好通商条約の調印に先立ち、上田藩の特産品であった生糸を出荷する体制を藩の商人とともに作り上げ、横浜開港と同時にいち早く生糸の輸出を始めます。
「蚕都上田」の土台を作った、まさに名君でもあったのです。
国の重要文化財 笠原工業の繭倉
忠固公の遺髪と遺歯を埋納した墓がある願行寺
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