2014.01.15 [ 職員のみつけた情報コーナー歴史 ]
長崎の地から赤松小三郎を想う・・・(その2)
(前回からの続き)
赤松小三郎は咸臨丸が太平洋に乗り出す日に、失意のうちに戻った上田の地で次のような句を詠んだとされます。
「春風や東に霞む船二つ 家柄は言うな雪解けの黒濁り 異国の風に歯を噛む柳かな」
赤松の心情が偲ばれます。
赤松小三郎の生家があったとされる場所(上田市中央4丁目)
この後、赤松は藩から調練調べ方御用掛を命ぜられ、横浜などでの軍需品の購入や武器輸送の役目を担いましたが、その機会を捉えて、英国大使館の兵士から英語と英式の兵法を一心不乱に学びます。
この折に赤松が後に示す新たな政治の形の原点となる英国式の政治手法も学んだといわれています。
赤松は英国大使館で学んだ知識と語学力を活かして兵法を記した英書「Field Exercises and Evolutions of Infantry」を日本語に訳し「英国歩兵練法」と名づける訳本にまとめました。
「英国歩兵練法」初版本(上田市立博物館HPより)
この時、西洋諸国からの最新の銃火器とともに進んだ練法である英国式調練を採用する藩が増えており、この本が瞬く間に話題となりベストセラーとなったのは言うまでもありません。
同時に赤松は政治が動いているのを肌で感じ、今や政治の中心となっている京の都で兵学塾を開くことが日本にとって大事なことと思い立ち、私塾「天雲塾」(塾名には諸説あるようです)を京都に立ち上げます。
赤松の訳本の評判もあり、会津藩士や新撰組隊士、薩摩藩士などその後の幕末を動かす諸藩の若者達が入塾し、塾生は800名にも及んだといわれています。
英国式兵法を取り入れようとしていた薩摩藩は、この赤松の行動を知り、薩摩藩士に指導をするよう赤松に要請します。
赤松はこの誘いを受け、薩摩藩で教鞭を執るようになるのです。
薩摩藩での教え子には東郷平八郎や上村彦之丞、伊東祐享といった日清日露戦争で重役を担うこととなる軍人や中村半次郎(桐野利秋)など西南戦争で西郷隆盛とともに戦う人物などがいます。
一方で、会津藩の京都守護屋敷からも西洋式銃隊調練の稽古を依頼されます。
会津藩のこの動きは単に兵法を学ぶためだけでなく、薩摩藩の内情を知る赤松から薩摩藩の動きを聞き出すためだったともいわれていますが、赤松は各藩の思惑を越え、公武合体により日本の新たな国づくりを果たしたいと考えたのでしょう、この依頼を了承し、会津藩でも指導に当たります。
この時に、NHKの大河ドラマ「八重の桜」でドラマの中心的役割を担った、後に初代京都府議会議長となる山本覚馬と知り合い、山本覚馬の要請で赤松が薩摩藩と幕府の融和を図ろうとしたことが、山本覚馬が薩摩藩に提出した「山本覚馬建白書」から読み取れます。
同志社大学図書館蔵
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(関係記述の主旨)
~薩摩藩は西国の雄藩で世界事情にも詳しく、公明正大にして卓越した見識を持っているが、幕府や会津藩、桑名藩にしても国を案じてのこと。それが齟齬を生じて確執となり、天下の物議に及ぶようになったようだ。これを払拭しようと、昨年6月、赤松小三郎(赤丸の部分)を遣り貴藩の小松(帯刀)氏と西郷(隆盛)氏に事情を申し上げ、ご同意をいただいた。そこで幕府の監察にも説明したが、取り合ってもらえなかった。~
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