2013.12.26 [ 職員のみつけた情報コーナー歴史 ]
長崎の地から赤松小三郎を想う・・・(その1)
地域政策課のHです。
先日、休暇を取って九州に旅行してきました。
その目的のひとつは長崎市で取り組んでいる「長崎さるく」に参加することでした。
「長崎さるく」は検定に合格した地域のボランティアガイドがテーマごとに作られた街歩きコースを解説しながら観光客にまち歩きを体験してもらうというもので、まちづくりの成功例として全国的にも知られている取り組みです。
今回参加したコースは「龍馬が見上げた空~風頭から亀山社中跡へ~」。
ご存知のように坂本龍馬は長崎に滞在して日本最初の株式会社といわれる亀山社中などを興したことから、市内のあちこちに龍馬ゆかりの地があり、その地を巡るというものです。
ガイドさんの色々な裏話を聞きながらのゆかりの地巡りは、幕末の大きな転換期を生きた龍馬を初めとした志士たちがこの場所で議論を交わしたのだという実感を味わえるものでしたが、それを感じるにつけ、上田出身の赤松小三郎もどのような想いでこの地にいたのだろうと思いを馳せました。
赤松小三郎は信州上田藩の下級武士でした。
赤松がどれほどの人物であったかは追ってお話しますが、下級武士でありながら、数学に秀でるなど、その恵まれた才覚からあの勝海舟の従者として選ばれ、員外聴講生として長崎海軍伝習所に入所しています。
長崎海軍伝習所は、江戸幕府が海軍士官養成のため長崎に設立した教育機関で、幕臣や雄藩藩士から選抜して、オランダ軍人を教師に、蘭学(蘭方医学)や航海術などの諸科学を学ばせましたが、築地の軍艦操練所の整備などにより3年半ほどで閉鎖されました。
「長崎海軍伝習所絵図」文化遺産オンラインHPより
赤松も伝習所の開所から廃止されるまでの3年半をここで暮らし、オランダ語の習得や航法など勉強に励んだそうです。
その海軍伝習所はどの辺りだったのだろうかと探してみました。
出島周辺は現在埋め立てられていて昔の面影はありませんが、出島自体は護岸や建物など徐々に復元が進み、当時の様子が分かるようになってきています。
長崎海軍伝習所は出島の後方、今の長崎県庁付近にあったと石碑だけが告げています。
この場所は出島を見下ろすような位置にあります。伝習所から出島内の様子を見ながら赤松は異国への思いを強くしたことでしょう。
そんな日々を送るうち、遣米使節団の派遣に咸臨丸が随行することが決定し、その艦長に勝海舟が任命され、乗組員も伝習所の卒業生から選抜されることになりました。
赤松は勝海舟の塾の門下生でもあり、他の卒業生よりも優れていたことから自分も選ばれるものと思っていましたが、選ばれたのは幕閣から選ばれた伝習生など幕府の息のかかった者たちで、員外聴講生だった赤松は選ばれませんでした。
人材を能力で選ぶのでなく、地位で選ぶこの時代のやり方に憤りを感じたことでしょう、失意のうちに上田に戻るのです。
(続く)
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