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小諸駅から小淵沢駅へ1泊2日で歩いてみた 後編

小諸駅から小淵沢駅へ1泊2日で歩いてみた 中編 からつづく

前編、中編は以下をご覧ください。

小諸駅から小淵沢駅へ1泊2日で歩いてみた 前編

小諸駅から小淵沢駅へ1泊2日で歩いてみた 中編


【南牧村】

〇海尻城跡

小海駅から歩くこと1時間余り。徐々に日が落ちてきた。

午後4時25分、海尻城(うみじりじょう)跡を訪ねる。

海尻城跡のふもとにある、海尻山(かいこうさん)醫王院(いおういん)藥師寺の本堂。

下の写真で、門をくぐれば海尻城跡、道が写っていないが右方向に行けば薬師寺の本堂。

城跡に通ずる道。まだわずかに雪が残っていたが、ありがたいことに枕木のお陰で大変歩きやすい。

登り始めて約5分で城跡に到着。四阿もあり、腰も下ろせる。

説明看板によれば、1540年(天文9年)に「海尻城の合戦」と呼ばれる、村上氏と武田氏の海尻城をめぐる攻防があり、武田氏が勝利したという。
現地を見ただけでは当時の様相は想像がつかなかったが、長野県立歴史館のHPに海尻城推定図が掲載されており、それと見比べると大変イメージが湧いた。
(掲載HP:https://www.npmh.net/miyasaka/2020/02/id-2.php

 

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海尻の畑には既にマルチが張ってあり、いよいよ今年の農業が始まるのだと、季節の変わり目を感じる。

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〇和泉館
午後5時20分、本日の宿「海ノ口温泉 湯元ホテル 和泉館」に到着。お部屋の名前に赤岳、横岳、硫黄岳などを冠しているだけあり、登山する宿泊者も多いらしい。私の前にチェックインされた方は翌朝から赤岳に登るとのこと。早朝に出発する登山者が多いためか夕食あり朝食なしの選択ができる。温泉は適温で疲れた体が大変癒された。

夕食の写真を撮ろうとしたが、そのタイミングで、県外にいる妻子からビデオ通話がかかってきた。事前にこの旅のことを説明していなかったので、なぜ浴衣を着てひとりで温泉を満喫しているのか、なぜ事前に妻に言わなかったのか、そもそも小諸から小淵沢まで歩いている理由をどう説明すれば良いのか、いろいろ考えているうちに汗が止まらなくなり、そのような事情から夕食の写真を撮りそびれてしまった。

【3月14日の行程まとめ】

小諸駅→(約3分)→小諸城址・懐古園前→(約1時間半)→駒形神社→(約1時間半)→旧中込学校→(約10分)→中込駅→(約50分)→蕃松院→(約5分)→龍岡城跡→(約5分)→川村吾蔵記念館→(約50分)→栄橋→(約5分)→高野町陣屋跡→(約40分)→黒澤酒造 酒の資料館→(約3分)→奥村土牛記念美術館→(約35分)→秩父困民党散華之地→(約15分)→秩父事件本陣跡→(約2分)→秩父暴徒戦死者之墓→(約20分)→小海駅→海尻城跡→(約40分)→和泉館

※カッコ内は移動で歩いた時間。寄り道した時間も含む。

この日の歩行距離は約52km。




日付は変わり、3月15日(日)。天候は晴れ、足は痛いが温泉のお陰で疲労感はない。
午前6時20分に出発。

 

〇海ノ口馬市場跡

午前7時25分、海ノ口馬市場跡を訪れる。

望月牧、塩野牧、長倉牧については前編で触れたが、川上村や南牧村も馬の産地として知られていた。戦国時代に武田氏が佐久地方を占拠すると、川上村で軍馬を飼育させ、武田軍団の騎馬に組み込んだという。江戸時代になってもこの地域で馬の繁殖が奨励された。明治時代も軍馬育成が国策の一つであったことから、この地域はどの家にも馬がいたという。石碑の説明書きによれば、明治時代に洋種の種牡馬の導入により仔馬の産出が増え、1887年(明治20年)に馬市場が開かれるようになり、1955年度末(昭和30年度末)まで続いたという。なお、この地域ではトラクターのない時代に、農耕馬としても活躍していた。

すぐ近くには、「日本のおへそ」と呼ばれる地点がある。南牧村のHPに解説資料が掲載されているのでご覧いただきたい。
(掲載HP:https://www.kanko-nobeyama.jp/old/?p=520/

ここからも美しい八ヶ岳を望める。

 

 

【川上村】

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信濃川上駅を目指して歩いていると、「ようこそ 高原野菜発祥の村」という看板が見えてくる。

標高が高く冷涼な気候をいかして高原野菜を生産する川上村。レタスの生産量は日本一をほこる。川上村の職員の方にお聞きしたところ、全国の夏秋レタス総出荷量の実に約3分の1を川上産で占めるという。残りのうちの約半分は南牧村などの川上村以外の長野県産、もう半分は長野県以外からの出荷だそうだ。その職員さんは子どもたちに、川上村からの出荷量(t)を説明するときには「シン・ゴジラ」と同じくらいの重さだと説明しているという。「シン・ゴジラ」の重さはどれくらいなのだろうか…。

 

とにかく畑が広大。

下の写真は川上大橋。いつもは車で橋を通るので気がつかなかったが、下から見るととんでもない高さだと驚く。

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〇信濃川上駅

午前8時50分、信濃川上駅到着。

元々川上村は鉱業や林業で栄えた。特にカラマツの造林については、県内で川上村の歴史が一番古いとされ、江戸時代の寛永年間(1624年~1645年)に幕府の天領として数百歩にわたり植林がされた伝えられている。明治時代には、川上村の井出喜重らがカラマツ苗の育苗と販路拡張を進めたという。

小海線の当初の構想ではこの位置に信濃川上駅が設けられる予定はなかったが、川上村が木材の搬出等のために村を挙げて駅の誘致を図り、1935年(昭和10年)1月に信濃川上駅が開業した。その後野辺山駅が開業し小海線は全線開通をした。それまでは交通の便が悪く「秘境川上」とまで呼ばれていたが、駅の設置により人の往来や木材の輸送が活発になった。また、そのころに野辺山高原や川上村でハクサイ栽培が始まり、野辺山駅と信濃川上駅からハクサイの貨物積込も盛んになり、木材とハクサイの出荷合戦になっていたという。戦時中の食糧不足により高原地帯にジャガイモの生産が推奨されたことから、ハクサイブームはいったん終焉した。

戦後、レタスの村として生まれ変わる。1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発すると、日本は米軍の補給基地となり、米軍は野菜を前線に送るためにレタス栽培に適した地域を探した。そこで川上村に白羽の矢が立った。その後小海線にはレタスが積み込まれるようになった。ただ、社会的に貨物輸送がトラックに移行する中で、小海線は1984年(昭和59年)に貨物列車を廃止した。

下の写真が信濃川上駅の駅舎。2021年(令和3年)、建て替えられている。駅舎にはカラマツ材が使われている。外装も内装も見ていて心が穏やかになる色合いだった。

駅の対面には、二宮金次郎(尊徳)像。
県歌の信濃の国の一節「みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき」が思い出される。

下の写真は、佐久地域振興局が佐久地域産のカラマツ材を使用し作製したサイクルラック。信濃川上駅の駐輪スペースに設置している。カラマツ林業は脈々と受け継がれている。

 

 

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野辺山駅までは「レタス街道」を登っていく。広大な畑の中、ひたすらに歩く。
午前10時には村の防災行政無線のスピーカーから早春賦のメロディーが流れてくる。
♪春は名のみの 風の寒さや 谷の鶯 歌は思えど♪
農家の方々に休憩の時間をお知らせしているそうだ。

そう言えば、南牧村・川上村に入ってから、聞こえてくる鳥の鳴き声が変わった。

 

レタス街道と小海線が並走する一帯は、八ヶ岳をバックに小海線を撮影できるスポットになっているらしく、県外ナンバーの方が三脚を使って撮影していた。
小海線が走ってきたので慌ててカメラで撮ったのが下の写真。何を撮りたかったのか、自分でもよく分からない一枚になってしまった。

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【南牧村】

〇野辺山駅

午前10時40分野辺山駅到着。
野辺山駅は1935年(昭和10年)11月29日に開業。この日をもって小海線全線開通となった。JR線の中では一番標高の高い所に位置する駅で、流線型の駅として全国的に話題になったという(現在の駅舎とは異なる)。初代駅舎の写真は中村勝実著『佐久鉄道と小海線』に掲載されているので、気になる方はぜひ書籍を手に取っていただきたい。

ハイブリッド車両が信濃川上駅方面に出発するところ。

駅前の「銀河公園」にはC56が保存されている。説明看板によると、この機関車は小海線のほかにも様々な地域で活躍していたようだ。国鉄の合理化により廃車となってからは、野辺山高原で「高原列車SLホテル」として親しまれていたが、老朽化により現在の場所で永久保存されることになったという。

下の写真は駅の隣の観光案内所で、これが実に多機能。物販あり、レンタサイクルあり、荷物預かりあり、そば・うどんもいただける。さらに、国立天文台野辺山への無料送迎まで行っている。ちょうど私が行った時にも、送迎を利用されている方がいらっしゃった。
天文台は昨年公開のアニメ映画の舞台となり、「聖地」として観光される方が急増した。

高原の空気は冷たく、足を止めた瞬間に体が冷えてしまったので、この観光案内所で温かいうどんをいただいた。あまりの美味しさにつゆまで飲み干す。

 

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次の目的地に向け歩いていると、天文台の45mの電波望遠鏡の頭が見えてくる。そちらも見学に行きたかったが、今回は時間の都合上断念。
戦時中、現在は野辺山宇宙電波観測所の敷地となっている場所で、航空戦闘員を養成するためのグライダーの訓練が行われていたという。

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〇三軒屋跡
午前11時35分、南牧村農村文化情報交流館(ベジタボール・ウィズ)の対面にある三軒屋跡を訪れる。

江戸時代に、現在の佐久市のあたりからお伊勢参りをするのであれば中山道を通っていきそうだが、どうやら必ずしもそうではなかったらしい。1770年の記録として佐久郡三河田村の百姓が、佐久甲州街道を通り身延山(山梨県身延町)へ行き、秋葉山(静岡県浜松市)まわりで伊勢神宮に詣で、熊野那智青岸渡寺(和歌山県那智勝浦町)、大阪、奈良、京都、山陽・山陰、岐阜を回り中山道で帰ってきたという記録があるらしい。正月六日に出発し、三月四日に帰ってきているようだ。

そこで問題となるのは休憩所(避難場所)。江戸時代の衣類で、真冬の野辺山を越えるという場合、いかほどの寒さだっただろうか想像に絶する。五街道にはある程度の間隔で宿場町があるが、当時の佐久甲州街道には、一定間隔の宿場がなかったらしい。お伊勢参りなど旅の需要が高まる中、野辺山に避難所がなければ旅人が野垂れ死んでしまうという。そこで1686年(貞享3年)、時の甲府藩主徳川綱豊(後の六代将軍 家宣)は扶持米を与え、板橋から2戸、平沢から1戸を移住させ、茶屋3軒を開かせ旅人の救護にあたらせた。下の写真はその屋敷跡。

下の写真は当時使用した古井戸で、三つあった。

 

 

〇平沢峠

正午に平沢峠到着。ここからは八ヶ岳と南アルプスを望める。

写真には1台しか写っていないが広い駐車場には10台以上車が停まっていた。
その割に人がほとんど見当たらなかったので、登山口の近い飯盛山(めしもりやま)に登っているように思われる。実際、登山客とすれ違った。

さすがにここに歴史的に触れられるものはないだろうと思ったが、それは全くの見当違い。
現地の説明書きによれば、1875年(明治8年)にエドムント・ナウマン博士(ナウマンゾウの名前の由来の研究者)がこの地を訪れたときに、ここから赤石山脈(南アルプス)を眺め、地形の不連続性に気が付いたことから、フォッサマグナを発見する契機になったという。
下の写真が南アルプス連峰。上の写真と見比べて、地形が違うと思うだろうか。私には全く分からなかった。

 

【山梨県】

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午後1時20分、清里駅到着。ブームは過ぎたといわれて久しいが、時間があれば入ってみたいようなお店がたくさんあった。
野辺山を過ぎれば少し暖かくなるかと思ったが、全くそんなことはなかった。考えてみれば当たり前で、清里駅は野辺山駅に次ぎJR線2番目の標高を誇る高原の駅。
駅前のコンビニのイートインで軽食。

 

午後2時10分。八ヶ岳高原大橋。駐車場に車を停め、歩いている観光客が何組かいた。
この時既に足は悲鳴をあげ歩行はよたよた。突然高所を歩くことが怖くなった。向こう岸まで這っていきたいくらいだったが、不審に思われても困るので何とか足元だけを見て橋を渡り切った。そういう事情で渡っているときの写真がない。

 

午後4時。甲斐小泉駅付近。同じ課の方と旦那様が応援に駆けつけてくれ、写真を撮ってくれた。

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〇小淵沢駅
午後5時、小淵沢駅到着。

 

小淵沢駅から佐久へ帰るところは番外編で記事にする。

【3月15日の行程まとめ】
和泉館→(約1時間)→海ノ口馬市場跡→(約1時間20分)→信濃川上駅→(約2時間)→野辺山駅→(約20分)→三軒屋跡→(約20分)→平沢峠→(約4時間45分)→小淵沢駅
※カッコ内は移動で歩いた時間。寄り道した時間も含む。

この日の歩行距離は約45km。

 

【1泊2日の小旅行で感じたこと】

佐久地域に住み始めて7年になるが、旅をする中で、地域のことをいかに知らないか良くわかった。今まで行ったことのある場所であっても、歴史という観点を持つだけで、「こんな史跡があったのか」、「看板はこんな説明してくれていたのか」、「この地域とこの地域はこんなつながりがあったのか」と新しい発見があった。また、歩くことで地形の高低差を身をもって感じ、今まで気が付かなかった石碑や動植物を認識することができた。車で最短距離を移動しているだけでは、本来見えるはずのものに気が付くことはできない。これからも歩いて地域を学んでいきたい。

【参考文献等(前編・中編・後編共通)】
(書籍)
・古川貞雄、福島正樹、井原今朝男、青木歳幸、小平千文(2018)『長野県の歴史』第2版(山川出版社)
・佐久商工会議所発行(2014)『中山道 佐久の道』
・信州大学経済学部・武者忠彦ゼミ、長野県建築士会著(2013)『信州まちなみスタディーズ〈佐久穂〉 谷あいの集落にたたずむ近代化の遺構』(信濃毎日新聞社)
・小町谷照彦・倉田実 校注(2021)『拾遺和歌集』(岩波文庫)
・秩父事件研究顕彰協議会編(2024)『秩父事件ガイドブック改訂版』(まつやま書房)
・井出孫六編著(1975)『自由自治元年 秩父事件資料・論文と解説』(現代史出版会)
・中村勝実著(1985)『佐久鉄道と小海線』(櫟)
・藤原忠彦著(2009)『平均年収2500万円の農村―いかに寒村が豊かに生まれ変わったか―』(ソリック)

(ホームページ)
・山崎長兵衛商店旧店舗(荒町 The GATE)
https://www.city.komoro.lg.jp/soshikikarasagasu/kyoikuiinkaijimukyoku/bunkazai_shogaigakushuka/2/1/1/bunkazai/kunisitei/16776.html
(参照2026-3-10)
・小諸城址・懐古園
https://www.komoro-tour.jp/spot/castle/(参照2026-3-10)
・懐古園の歴史
https://www.city.komoro.lg.jp/soshikikarasagasu/kaikoenjimusho/kanko_sangyo/1/1/966.html(参照2026-3-11)
・小山敬三美術館
https://www.city.komoro.lg.jp/soshikikarasagasu/kyoikuiinkaijimukyoku/bunkazai_shogaigakushuka/4/2/2/2084.html(参照2026-3-11)
・佐久市指定文化財一覧より「駒形神社本殿(附 棟札 4枚)」
https://www.city.saku.nagano.jp/bunka/bunkazai/bunkazaijimusyo/shiteibunkazai.files/a006.pdf(参照2026-3-10)
・佐久市指定文化財一覧より「旧中込学校校舎(附 建築文書3点)」https://www.city.saku.nagano.jp/bunka/bunkazai/bunkazaijimusyo/shiteibunkazai.files/a001.pdf(参照2026-3-10)
・佐久の先人事業より「大給 恒」「川村吾蔵」「松本谷吉」「清水清吉」
https://www.city.saku.nagano.jp/bunka/bunkazigyou/senjinkento/senjinkento.html(参照2026-3-10)
・佐久市指定文化財一覧より「龍岡城跡」https://www.city.saku.nagano.jp/bunka/bunkazai/bunkazaijimusyo/shiteibunkazai.files/a003.pdf(参照2026-3-10)
・長野県のカラマツ造林の歴史と復活への取り組み
https://www.fgtb.jp/pdf/2017/10m/FGTB_V6N4_topic1.pdf(参照2026-3-10)
・南牧村の歴史
https://www.minamimakimura.jp/main/about/history.html(参照2026-3-10)

(パンフレット)
・龍岡城五稜郭(発行:佐久市教育委員会)
・佐久から見た秩父事件(発行:小海町、小海町教育委員会、小海町文化財調査委員会、小海町東馬流区、著者:井出正義)

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