企画振興課の職員Yが小諸駅から小淵沢駅まで歩いた記録である。しばしお付き合いいただきたい。
前編は小諸市・佐久市、中編は佐久穂町・小海町、後編は南牧村・川上村・山梨県、番外編にJR小海線のHIGH RAIL 1375について記す。
【経緯と前提】
佐久地域~山梨県を歩くといえば、山梨県韮崎市から佐久市まで78kmを夜通し歩くという「佐久市強歩大会」や、山梨県立甲府第一高等学校の、学校から小諸市まで103km(男子)歩く「強行遠足」という非常にタフな行事がある。
オマージュとして、1泊2日で小諸駅から小淵沢駅まで歩いてみることにした。
ただ歩くのではブログにならない。今年は長野県制150周年にちなみ、歴史に触れていきたい。
佐久地域に長らく住んでいる方にとっては常識のことも多いと思うが何卒ご容赦いただきたい。
150年前は1876年(明治9年)、そのころには何があったのか。全国的には、版籍奉還(明治2年)、廃藩置県(明治4年)、学制公布(明治5年)、富岡製糸場の建設(明治5年)、地租改正(明治6年)、明治六年の政変(明治6年)、民撰議院設立建白書(明治7年)、西南戦争(明治10年)、自由党結成(明治14年)など、歴史の授業で扱われる様々な制度改正や事件等が起こった激動の時期。書籍等で調べてみると、こうした時代の名残が佐久地域の史跡等でも見られることが分かった。
【小諸市】
〇小諸駅
3月14日(土)午前5時10分。私は小諸駅に立っていた。小諸駅に乗り入れているしなの鉄道では、この日から交通系ICカードが使えるようになり、真新しい簡易Suica改札機が設置されていた。(JR小海線は一部区間を除き使えないので注意)


小諸駅には、1888年に官営鉄道(その後信越本線、現在はしなの鉄道となる)、1915年に佐久鉄道(その後小海北線、現在は小海線となる)が通った。
地元住民によれば、長野新幹線(現:北陸新幹線)が佐久平を通り、信越本線の特急が止まらなくなったことで、小諸駅前は一時期シャッター街となっていたそうだが、ここ数年は、小諸に魅力を感じた移住者が面白いお店をたくさん開業されている。開業した方々にお話を伺ったところ、北国街道の街並みや、地元有志による「おしゃれ田舎プロジェクト」の取組等により新しいお店ができていることに魅力を感じ、小諸を選んだという。
しかし歴史的な街並みを残すということは人の強い意志が必要である。
〇開魂楼 時の門
山崎長兵衛商店旧店舗(現 荒町 The GATE)は1926年(大正15年)に建築された。ちょうど100年前にあたる。2022年(令和4年)10月には国登録有形文化財(建築物)に指定されたが、実はその数年前には建物解体の危機の中にあった。それを知った元小諸市地域おこし協力隊の石川実さんが買い取り、そこで飲食業、小売業、宿泊業を開業した。もし石川さんの行動がなければ、これほどの建物が佐久地域から消えていた。今日見ることができる歴史的な資料・史跡等が残っているのは、先人たちの後世への思いや努力の賜物だと感じさせられる。


出発前日に荒町 The GATE内の「開魂楼 時の門」に宿泊した。以前石川さんとお話をした際に、建物買取のお話をお聞きし、その行動に感銘を受け、一度泊まりたいと考えていた。歴史あるこの施設が宿泊用に1棟貸しされているという状況が面白い。今回の企画を考えるにあたり、迷わず「開魂楼 時の門」への宿泊を決めた。
宿泊当日フロントで、石川さんが笑顔でお出迎えして下さる。私が今回の小旅行の経緯をお話しすると、石川さんは山崎家の商家としての歴史や建物のつくりの経緯などを一つひとつ詳しくお話して下さった。座敷牢といい調度品といい、まずお目にする機会のないものばかりである。

部屋は一人で泊まるにはもったいないほど広く、非常に快適に過ごさせていただいた。
夜の滞在になってしまったので、お庭の写真が撮れていない。下記の宿泊予約サイトには鮮明な写真が出ているのでぜひご覧いただきたい。
https://travel.rakuten.co.jp/HOTEL/179060/179060.html
https://travel.yahoo.co.jp/00916526/
〇小諸城址・懐古園
時は現在に戻り、3月14日午前5時20分、小諸城址・懐古園前到着。小諸城の前身は大井光忠が築いた鍋蓋城、これを取り込んだ武田信玄の城郭だが、仙石秀久がこれを大改修した。北国街道建設とあわせた大事業で今の小諸の原形が作られた。その一方、民衆の負担が増えたことから「佐久一郡逃散」と呼ばれる大規模な抵抗を呼んだとされる。秀久死後、子の忠政が治めた後、小諸城の城主は徳川氏・松平氏などを経て、牧野氏が10代170年に渡り藩主をつとめた。廃藩置県で廃城となったが、小諸藩の元藩士らによって明治政府から買い戻されたという。
今回は開園時間まで4時間あるので、未明の三之門と大手門の写真だけ撮った。園内も季節折々の顔を見せてくれるので、また桜や紅葉の季節にも訪れたい。


小諸城址・懐古園に行った際にはぜひ小山敬三美術館にも寄っていただきたい。今回は寄る時間がなく写真はないが、以前見た小山敬三氏の絵画や、村野藤吾氏が設計した建物・空間には非常に心を動かされた。
また近いうちに訪れようと思いながら次の目的地へ出発する。
【補足】
小諸城三之門は、1742年(寛保2年)の「戌の満水」と呼ばれる広域的に甚大な被害をもたらした洪水により流失し、その後再建された。戌の満水については、佐久広域連合が作成した動画「戌の満水-その時、佐久では-」(第1講:https://www.youtube.com/watch?v=A8xqy-iogeE)をぜひご覧いただきたい。第5講では小諸城周辺の影響に触れられている。
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しなの鉄道、この色も魅力的。この時間は曇天だった。
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【佐久市】
〇駒形神社
午前7時5分、佐久市の駒形神社。以前から車で前の道を通るたびに気になっていたが、駐車場がないため立ち寄れずにいた。今回は徒歩というせっかくの機会なので伺ってみた。


1486年に耳取城の城主大井正継が「再建」したものが今に伝わっているそうだ。祭神には騎乗の男女二神像が安置されていることから、目的は望月の御牧を守るためとされている。(望月までは遠すぎるので私牧の守護社だったのではないかという異説もある)
信濃の国には古くから望月のほか塩野や長倉、その他にも多数の牧があったが、望月の牧は別格だったそうだ。8世紀末頃までに一国を単位に中央政府が任命し、牧に関する政務を行う「牧監」がおかれたが、信濃だけが定員二人で、その理由は望月牧の担当と、それ以外の諸牧の担当に分かれたからだそうだ。
なお、紀貫之が
「相坂の 関の清水に 影見えて 今や引くらん 望月の駒」
(意:逢坂の関の清水に満月と鹿毛の駒の姿が見えて、今まさにひいているだろうか、望月の駒を)
と詠むなど、望月の牧は歌枕にもなっている。
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中部横断自動車道の上の橋からの風景。
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〇旧中込学校
午前9時ちょうど、続けて訪れたのが国指定重要文化財・史跡となっている旧中込学校。1872年(明治5年)に学制が公布されると、小林寺(しょうりんじ)の建物を校舎として使ったのち、1874年(明治7年)に新校舎建築が決定。1875年(明治8年)に完成した。現存する旧開智学校は1876年(明治9年)竣工なのでそれよりも早く、現存する県内学校建築のうち最も古い擬洋風建築物とのことである。建築費用は村内外(当時は佐久郡下中込村)の寄附などによって賄われたようだ。農村女性の解放に尽くした丸岡秀子の出身校にあたる。

旧中込学校の敷地の隣にある成知公園には小海線で活躍したC56とガソリンカーが展示されている。ただし公園用の駐車場はないので、車ではなくJR小海線滑津駅(公園まで約350m)を利用しお越しいただきたい。

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旧中込学校から中込駅へ向かう途中、お米のとてもいい香りがしてくる。

土屋酒造店さん。香りは蒸米によるものだろうか。
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〇中込駅
午前9時35分、小海線統括センターが置かれる中込駅に到着。古くは佐久鉄道本社が駅前に置かれていた。駅舎には小海線沿線鳥瞰図や、写真が飾られている。

佐久地域振興局が県民参加型予算を活用して作成した「高原列車がはしる街 移住者のための小海線ガイドブック」(写真中、手前ケース内の冊子)も置かせていただいている。
(ガイドブック紹介URL)
https://www.pref.nagano.lg.jp/sakuchi/sakuchi-kikaku/koumiline-guidebook.html
余談だが、中込駅には毎日お世話になっている。1月~3月の3ヵ月間、車通勤から小海線通勤に切り替えた。佐久合同庁舎の最寄り駅は中込駅。徒歩で30分弱かかるが、運動不足の解消になった。晴天率が高く、雪で困るということはなかった。副次的な効果で、歩いている途中で四季を感じたり、仕事を反省する時間にもなった。
〇蕃松院
午前10時20分、龍岡城跡を目指して歩いていたところ、息をのむほど美しいお寺があった。大梁山(たいりょうざん)蕃松院(ばんしょういん)である。まったく下調べをしておらず、当初のルートにはなかったのだが、吸い寄せられるように拝観。
お寺の説明看板によれば、1580年(天正8年)に曹洞宗として開山され、1583年(天正11年)依田信蕃(のぶしげ)が岩尾城攻めの際に没し、その子の松平康国が追福供養を念じ、その居館跡に堂宇を再建し、父の戒名から寺号を蕃松院としたとのことである。
松並木や仁王門から本堂までそれぞれ素晴らしいが、何より敷地内の居心地の良さに感嘆した。

〇龍岡城跡
午前10時35分、国指定の史跡、龍岡城跡を訪ねる。龍岡城は御殿まで含めて1867年(慶応3年)に竣工したという。田野口藩主(後に藩名改め龍岡藩主)だった松平乗謨(のりかた)は、早くから洋式築城学に関心を寄せており、幕府が函館の五稜郭築城工事に取り掛かった1857年(安政4年)頃から、フランスの稜堡式築城をモデルに設計図を書いたという。五稜郭は五角形の突端に砲台を置くことで敵の攻撃を死角なしに防げ、また攻撃面でも援護射撃のもと各門から兵が打って出て四方八方に展開することもできる、合理的な設計とされる。1871年(明治4年)の廃藩により城は取り壊されたが、堀や土塁などは残っている。また、お台所は1872年(明治5年)の学制発布により、学校として使用するために残されたという。2023年まで佐久市立田口小学校があり、校舎は残されている。
なお、松平乗謨は大給恒(おぎゅうゆずる)と改名し、版籍を奉還し、その後廃藩を政府に申し出ている。大給はその後も勲章制度の確立や博愛社(現在の日本赤十字社)を設立するなどの活躍をしている。
隣接する「五稜郭 であいの館」には龍岡城や大給恒の詳しい解説があり、お土産も購入することができる。

〇川村吾蔵記念館
午前11時、龍岡城跡の隣にある川村吾蔵記念館。記念館の名前は知っていたし、龍岡城跡に来たこともあったのだが記念館の場所を知らなかった。相澤寺(そうたくじ)の仏面展が3月22日まで開かれているということなので訪問する。
最初に川村吾蔵の紹介ビデオを拝見。吾蔵はアメリカ等で彫刻を学び、乳牛像で評価を高め「牛のGOZO」として名声を馳せた。1940年(昭和15年)に37年ぶりに帰国する。1945年(昭和20年)に敗戦による米軍進駐の際に、通訳をしていた吾蔵がアメリカで活躍した「GOZO」であると将校に知られると、横須賀基地に美術最高顧問として招かれたという。マッカーサーにも胸像制作を頼まれ、マッカーサーは吾蔵のアトリエに行くため横須賀に行ったそうだ。文化芸術の普遍性や重要性を実感するエピソードと感じる。
ビデオを拝見した後に私と2名の来館者が展示室に行くと、職員さんが乳牛像に関わるエピソードや、吾蔵の作品の特徴などを丁寧に説明してくださった。吾蔵は依頼者との対話を通じて表情を引き出すとともに、顔のしわや衣服の質感も表現されているという。川村吾蔵記念館は個々の作品の解説文も充実している。尾崎行雄の胸像の解説では、尾崎は自分の銅像を作れるような優れた彫刻家などいないという理由で銅像制作を断っていたが、吾蔵を紹介され、交流を重ねるうちに心を通わせ、制作を快諾したそうである。尾崎の他にも島崎藤村、ヘレン・ケラーなど国内外の著名人と交流を持ち、胸像を制作している。

(尾崎行雄の胸像)
その後、仏面展に訪れた。仏面は、ポスターで初めて目にした時から、一体何に使われるものなのか気になっていた。展示室の説明書きによると、「二十五菩薩来迎会」という「本堂を極楽浄土、地蔵堂を現世に見立てて、きらびやかな金色の面の二十五菩薩が民衆を極楽浄土へ導く様子を表す行事」で使われたということである。相澤寺でも江戸時代末期まで行われていたそうだ。

【今回訪れたところ】
小諸駅→(約3分)→小諸城址・懐古園前→(約1時間半)→駒形神社→(約1時間半)→旧中込学校→(約10分)→中込駅→(約50分)→蕃松院→(約5分)→龍岡城跡→(約5分)→川村吾蔵記念館
※カッコ内は移動で歩いた時間。寄り道した時間も含まれる。
今回は以上、続きは中編へ。
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