小諸駅から小淵沢駅へ1泊2日で歩いてみた 前編 から続く
(前編はこちら:http://blog.nagano-ken.jp/saku/?p=38500)
今回は佐久穂町から小海町までの行程を紹介する。
【佐久穂町】
〇高野町陣屋跡

3月14日午後0時50分、高野町陣屋跡を訪れる。佐久穂町にある高野町には佐久甲州街道が通る。1653年(承応2年)に南佐久地方の大部分が甲府城主徳川綱重領になると、この地方を統治するための陣屋が高野町に置かれ、重要な役割を果たした。その後この地方は幕府や水野氏が領有することになるがいずれも高野町に陣屋が置かれた。その後、江戸後期に幕府領に編入され、陣屋の整理が進むと中之条陣屋(坂城町)または御影陣屋(小諸市)が佐久郡の管轄役所となり、高野町は政治的な中心地としての役割は薄れたが、その後も宿場町として栄えたという。
高野町陣屋跡の説明看板に「江戸幕府や大名、旗本などが、自分の領地を治めるために設置した役所を陣屋または代官所と呼ぶ」とあるように、陣屋は地域支配で非常に重要な役割を果たしたものの、非常に残念なことに、当時を伝える建物自体はなかなか残っていない。この高野町陣屋跡も別の建物が建っている。事前に坂城町中之条の陣屋があった場所も訪ねてみたが、個人宅になっていた。小諸市の御影陣屋も建物は現存せず、陣屋跡は公園になっているが、天領の里・御影用水史料館において御影陣屋、御影用水、道祖神祭などの資料が展示されている。
〇栄橋
午後0時40分栄橋到着。
実際の行程では高野町陣屋跡より先に通ったが、話の都合上こちらで紹介する。


高野町は江戸時代から商家が立ち並んでいたが、1899年(明治32年)に高野町と東町を結ぶ栄橋がかかったことで東町に人の流れが生まれたという。
1915年(大正4年)に佐久鉄道が羽黒下駅まで開通すると、栄橋は羽黒下駅までの木材の運搬ルートとしても重要な役割を果たしたそうだ。
現在の橋は三代目で、1938年(昭和13年)に完成した。鉄筋コンクリート・ローゼ桁による日本独自、世界初の橋梁群のひとつで、2025年(令和7年)3月に国の登録有形文化財となった。栄橋の説明看板を読むと、栄橋の設計担当者は中島武とあり、1933年(昭和8年)に長野県技師として赴任した3年半余の間に、コンクリート・ローゼ桁を7橋設計・架設したという。私が以前住んでいた坂城町に、昭和橋という幅員が狭く古くに設計されたと思しき橋があるのだが、いかにも堅牢そうだったのでずっと心に残っていた。栄橋の説明看板を読むと昭和橋の設計者も栄橋と同じく中島武氏とわかり、堅牢だと感じた根拠も少しわかった気がした。
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今回歩いて初めて地域での石碑の多さを知った。道祖神、庚申塔、二十三夜塔など。

上の写真は佐久穂町海瀬にある庚申塔。側面には寛政と書いてあるように見える。前編で佐久市旧中込学校に行く前に、近くの小林寺(しょうりんじ)に寄っていたが、その境内にある庚申塔にも寛政と刻まれていた。なお、寛政年間は江戸時代の1789年~1801年。またもう少しゆっくり歩く機会があれば佐久地域に残っている庚申塔の建てられた時期を探ってみたい。
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〇黒澤酒造 酒の資料館
午後1時30分、酒造としても知られる黒澤家の歴史ある建物が集まる地区を訪れる。

黒澤酒造は黒澤利左衛門により1858年(安政5年)に創業された。
利左衛門は佐久の農家から麻布を集めて江戸で売り、その売上を元手に江戸から商品を仕入れ、佐久で売ることで、財をなしたようだ。1853年(嘉永6年)にペリーが来航した後は、生糸の輸出が増加する中で生糸仲買商として栄えたという。利左衛門の子の鷹次郎は生糸の貿易を手掛け、佐久地方に代金を早期に回収するための荷為替手形を発行する金融機関が必要と考え、1877年(明治10年)に伯父の伴次郎らとともに国立第十九銀行を設立した。第一次大戦時には生糸の輸出が落ち込み、製糸業へ融資していた銀行が回収へシフトした中で、鷹次郎は製糸業への融資を継続し、多くの製糸業者を倒産の危機から救ったという。その後、第十九銀行は1931年(昭和6年)に第六十三銀行と合併し八十二銀行となる。ご存知のとおり、令和8年1月には、八十二銀行と長野銀行が合併し、八十二長野銀行が発足している。
話が少々脱線してしまった。
黒澤酒造は、利左衛門から嘉四蔵(鷹次郎の弟)が継ぎ、現在の当主は6代目。銘柄では「井筒長」がよく知られている。
黒澤酒造 酒の資料館では、昔の酒造りの様子がわかるジオラマや道具、酒器などを無料で見学することができる。


今回は時間が限られていたため訪れることができなかったが、併設の蔵元ショップ・ギャラリーくろさわでは日本酒の有料試飲ができるそうだ。
【佐久穂町~小海町】
〇奥村土牛記念美術館
午後1時40分、建物も植栽も美しい奥村土牛記念美術館へ。
和洋折衷の建物は1927年(昭和2年)竣工。もともとは黒澤合名会社の社屋として使われていた。同社は、先の黒澤鷹次郎が「五摂家」と呼ばれる黒澤家一族の資産を管理するために設立した会社で、社屋は業務用のほか、一族の冠婚葬祭などのために使われたという。奥村土牛が疎開時に、この社屋の離れを自宅兼アトリエとして使用していた。
1985年(昭和60年)、建物が黒澤家から当時の八千穂村に寄贈され、竹下登内閣のふるさと創生事業の1億円を原資に奥村土牛記念美術館とすることが決まり、奥村画伯から数多の素描の寄贈を受け、1990年(平成2年)に開館した。



建物は格調高く、窓からの光や自然の切り取り方が美しく、ずっと居たくなるような空間だった。
〇石碑「秩父困民党散華之地」
午後2時35分、小海線の高岩駅と馬流駅の中間にある巨大な天狗岩の足元に到達。小海線撮影スポットとして有名なこの場所は、秩父事件の戦跡地としても知られている。

1877年(明治10年)の西南戦争により膨大な支出を強いられた明治政府はインフレに悩まされていた(インフレの進行に伴う貨幣価値の下落は、定額の地租収入の実質的な減少を招き、政府にとって不利に働く)。そのような状況に対応するため、明治十四年の政変(1881年)を経て大蔵卿に就任した松方正義が「松方財政」と呼ばれる緊縮財政を推進し、「松方デフレ」が起こる。これにより農産物価格が下落したタイミングと、世界的な不況が重なり、生糸の価格は大暴落し、農家は困窮した。
1881年に板垣退助が自由党を結成し、1884年(明治17年)2月に自由党幹部の大井憲太郎が秩父での演説を機に、自由党入党者が続出した。1884年、秩父では、その年の養蚕が終わった後、自由党員が中心となり「困民党」が組織されたという。
秩父困民党は請願活動や高利貸との直接交渉を繰り返す中で、1884年11月1日に武装蜂起に至ったとされる。大井は蜂起中止説得のため人を派遣したが、その者は秩父の状況を知り阻止が不可能であると悟ったという。困民党は秩父から群馬、群馬から十石峠を越え南佐久郡まで転戦したが、11月9日に野辺山原で壊滅した。この時、困民党員や警官のほか無関係の女性が亡くなり、事件後死刑を含め多数の困民党関係者が処罰された。(死者数や処罰された人数については資料により様々な説あり)

1884年11月9日未明に、官軍と困民軍が天狗岩前の棚橋を挟み銃撃戦となり、困民党は敗走している。
天狗岩の近くには「秩父困民党散華之地」の石碑があり、戦死者の名前が刻まれている。南佐久への転戦を指導したのが、旧豊里村生まれで北相木村に婿に入った菊池貫平で、上の写真の中で手を挙げているのが貫平像である。
【小海町】
〇秩父事件本陣跡
午後2時50分、秩父事件本陣跡に到着。ここに本陣が設けられたのは1884年11月8日のこと。

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馬流駅から小海駅に向かう小海線。
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〇秩父暴徒戦死者之墓
午後2時55分、秩父事件本陣跡から線路を渡り東側にあるお墓に到着。戦いで犠牲となり、引き取り手さえなかった亡骸を葬った場所に、事件の50年後に菊池貫平の子孫が建てたもの。

秩父事件について調べる中で、多様な背景があることを知り、今後も地域の歴史の一つとして学んでいく必要があると感じた。
〇小海駅
午後3時20分、小海駅到着。

小海駅には、小海町、南相木村、北相木村のバスが停留する。上記写真の右は南相木村のバス、左の赤いラインが入っているのが北相木村のバス。


小海駅の駅中には、無料で子供が遊べるスペースがある。公共交通でアクセスでき、室内で遊べる無料スペースとしてとてもありがたい。私も以前子どもと、小海線の待ち時間に使わせていただいた。
ところで、小海線はなぜ小海線というのか。中村勝実著「佐久鉄道と小海線」で解説されている概要は以下のとおり。
小諸~小海間は当初私鉄の佐久鉄道で、小海~小淵沢を国鉄が建設した。国鉄がローカル線の名称を決めるときには地元の代表的な地名から命名するケース(飯田線、飯山線など)や起点と終点の頭文字を取るケース(大町~糸魚川の大糸線など)があったが、小海線にはいずれにも適当なものがなかったという。小海~小淵沢間の代表的な地名はなく、小海小淵沢の頭文字を取ると両方小がついてしまう、ということである。国鉄側として将来的に佐久鉄道を買収したいという意向はあっても、その段階では佐久鉄道区間を含めての命名は考えられない。そこで、再度ローカル線の命名方法を考えたときに、命名当時すでに建設された小海~佐久海ノ口間だけの区間に限れば小海は代表的な地名と言える。また、将来小海~小淵沢間が全通した時に小淵沢の「小」、小海の「海」を取ったと拡大解釈もできるとして「小海線」になったという。
【今回訪れたところ】
栄橋→(約5分)→高野町陣屋跡→(約40分)→黒澤酒造 酒の資料館→(約3分)→奥村土牛記念美術館→(約35分)→秩父困民党散華之地→(約15分)→秩父事件本陣跡→(約2分)→秩父暴徒戦死者之墓→(約20分)→小海駅
※カッコ内は移動で歩いた時間。寄り道した時間も含む。
今回は以上、後編へ続く。
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