ほっと9(ナイン)ながの 長野で働くスタッフが、長野地域の9つ(ナイン)の市町村の「ホット」な魅力をご紹介!(長野市、須坂市、千曲市、坂城町、小布施町、高山村、信濃町、飯綱町、小川村) 私たちの日々の仕事の話、「ほっと」一息つける癒しの裏話、きっと役に立つ暮らしの豆知識、おすすめ絶品グルメ…などなど、ここでしか出会えない”ながの”のすがたをお見逃しなく!(旧「ほっとスタッフブログながの」)(写真:須坂市 五味池破風高原自然園))

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眼下に広がる田園風景“高坂の棚田”(信州棚田カードNo.7)

農地整備課のKです。
信州農産物が当たる「棚田スタンプラリー」も応募締切の11月12日(月)まで、あと2週間となりました。
地域の歴史を感じながら、スタンプを集めてみてはいかがでしょうか。

今回は、信州棚田カードNo.7「高坂の棚田」の歴史についてご紹介します。
この棚田は、明治時代から行われてきた耕地整理により整然とした形状を成しており、先人の偉大な功績を今まで受け継ぎ、現在の美しい棚田が維持されています。

この「高坂の棚田」の歴史について、「いいづな歴史ふれあい館」で学芸員をされている”小山丈夫さん”に大変貴重な資料をいただきましたので、ご紹介します。

<高坂の棚田の歴史>
・飯綱町高坂地区の標高650~750mの付近には昔から棚田が広がっていました。
当時のこの地方の稲作は人力にたよるところがほとんどで、湿田の浅耕で肥料は刈敷(草や雑木の若葉)依存の少肥料でしたので、人手で耕作ができる限界まで地形に沿った形で開田されたため、小さな面積で規格性の無い水田だったのです。

・長野県では1892年(明治25)ころから、稲作技術の改良として畜力による馬耕を推進しました。
馬の力で犂を引き、深耕して金肥を投与することで地味の向上をはかり稲の生育を促進して収量の増産をさせようとし、各地で県主催の馬耕講習会が開催されました。
明治33年に現在の東御市で松山原造による画期的な馬耕犂「松山犂」が発明されたことも、県内の馬耕普及を後押ししたといわれます。

・馬耕には規格の揃った乾田が最適です。
馬耕の普及は耕地整理への動きを促進させることになりました。
国は明治32年「耕地整理法」を制定し、耕地の利用を促進するため、共同での土地の交換分合、区画形状の変更、道路・畦畔・溜め池等の変更廃置、灌漑排水の設備などの事業を進めていましたが、明治38年には整理地一反につき2円以内の県費補助が出るようになり、ついで日露戦争下の地租増徴のあと戦時記念事業として生産性の向上をはかる土地改良事業を県が行う場合、国庫補助金が交付されるようになったことなどもあって、各地で耕地整理が現実のものとなっていきました。

・高坂の耕地整理事業を推進したリーダーは、のちに「高岡村開拓の親」と称えられた高坂住民の松澤和太五郎(1850(嘉永3)~1926(大正15))でした。
1874年(明治7)当時北信濃有数の和算家武内度径(長野市豊野町)に学び算術免許を伝授された知識人だった和太五郎は、同15年高坂村戸長(村長)、同22年~37年高岡村会議員を5期つとめ、その間同34~37年まで高岡村長をつとめました。
高坂地区の耕地整理は高岡村長時代の立案で、和算で培った測量術の知識を元に具体化する構想力を発揮したと思われます。

・明治 39 年(1906)3月12日県認可当時の高坂耕地整理計画は、溜め池2ヶ所を新設して、畑9町歩、原野5反2畝歩、山林6畝歩を水田に地目変更し、湿田28町8反歩とあわせて区画整形し乾田化するというものでしたが、順次規模は縮小されたようです。
大正5年(1916)段階で開田6町7反余、田区改正7町7反余、溜め池は前山溜め池1ヶ所が築造されたことが知られますが、最終的な規模は記録がなく判然としません。
この第一次耕地整理は大正10年(1921)1月に一旦完了となり、同12年12月には本間利雄長野県知事の揮毫になる「耕地整理記念碑」が委員長松澤和太五郎と委員連名で高坂の曹源院門前に建立されました。

・第一次耕地整理では溜め池の貯水力が不足し用水に不足が生じたことから、大正14年(1925)8月松澤和太五郎らは再び耕地整理を県に出願、認可され、同15年8月高坂第二耕地整理組合が設立されました。
事業は溜め池1ヶ所の新設と、既存の前山溜め池の堰堤嵩上げによる貯水量増加でした。
ただし溜め池の新設は実現しなかったらしく、別水系の沢から前山溜め池への導水工事が行わました。
松澤和太五郎はこの事業の完了を見ることなく大正15年12月26日に76歳で亡くなりました。高坂第二耕地整理は昭和3年(1928)に完工したようです。

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