2025.01.18 [ 松本市文化・伝統松本農業農村支援センター ]
松本に残る軍事工場跡(戦争遺産)
太平洋戦争(1941年~1945年)末期、松本市に大きなトンネルが掘られました。名古屋にあった航空機製作所が、松本に疎開して来たものです。
同じ頃、日本軍が長野市松代(まつしろ)に大本営を移そうと計画していたのを、ご存知の方は多いのではないでしょうか。約9カ月で大規模なトンネルが掘られ、多くの人々が過酷な労働を強いられました。大本営跡は現在、一部が戦争遺跡として見学することができます。
松本の軍事工場跡は見学できませんが、松本農業農村支援センターのOが紹介します。
❚ 松本に作られていた軍事工場
名古屋など都市部に空襲が始まったことにより、航空機製作所は爆撃を避けるため、松本市に疎開しました。
設計部隊は松本市街地(現在のあがたの森公園周辺)で研究していましたが、部品の組み立て、保管のための大規模な工場は、里山辺(さとやまべ)地域に建設されていました。
里山辺にある林大城跡(はやしおおじょう あと)、林小城跡(はやしこじょう あと)の下にトンネルが掘られ始めたのは、1945年4月とされています。事実だとすると、終戦までの3ヶ月半の突貫工事でした。
朝鮮半島や国内から集められた人が作業を担当し、やはり過酷な労働を強いられたようです。
林小城跡の下に掘られた地下工場は、大嵩崎(おおつき)地区(林大城跡と林小城跡のあいだの谷)から東側(岩波酒造の辺り)にトンネルが貫通していたそうです。
しかし、工場全体としては完成することなく終戦を迎え、使用されることはありませんでした。
❚ トンネル状の地下工場
林大城跡の下には、今もトンネルが残っています。入口周辺が崩れてきていることから、2年前から一般の人の入坑ができなくなりました。現在は、工場跡を管理している「松本強制労働調査団」の方々が、調査、記録のために入坑するのみです。
調査団では、地下工場の様子を動画に撮ったり、聞き取り調査での録音データをデジタル化したり、戦争の悲劇を次世代にも伝えていく活動をしています。
大切な戦争遺産です、どんな形にせよ、遺していきたいですね。
調査団にお願いし、調査に同行させてもらいました。
内部は、トンネルが格子状に掘られています。
写真は、里山辺大嵩崎に松本市が建立した戦争遺跡記念碑に刻まれた工場完成予定図です。
赤矢印の箇所から入坑します。現在はこの入口からしか入れません。
入口付近で地図を見て、現在地と道を確認します。
ところどころ、入口からの距離を示す数字や杭が残っていますが、真っ暗なので案内がなければ歩けません。
奥へ進みます。壁や天井に、ドリルで穴を開けた跡が残っています。
計画された地下工場のうち実際に掘られたのは4割程度で、現在も残るのは、約1.2kmくらい。その内には、トロッコのレールや、壁に埋められたダイナマイトの跡が残っています。
岩盤を壊したあとの大小の石は、するどく尖っています。建設当時、作業員は草履であったため、足を切ったのだそうです。物資が少なくなっていた戦争末期とはいえ、労働条件の悪さには愕然とします。
壁の高い位置に「天主」の文字が残されています。キリスト教の神様のことです。
この地下工場の作業は、朝鮮半島からの労働者が担当していました。作業に当たった人たちが書いたものと考えられています。
戦争、過酷な労働、宗教の制限…いろいろな不幸のなか、どんな思いで書いたのでしょう…暗闇の中のこの文字に、胸がつぶれる思いでした。
調査団が、地面から文字までの高さを測って記録しました。
併せて、当時の宗教弾圧の話を伺いました。
調査団では直接、中国や韓国へ行って、働いていた方やそのご家族からお話しを伺ったそうです。弾圧のすさまじさと被害の悲惨さに涙があふれたと語ってくれました。
❚ 太平洋戦争の記憶と記録
地下工場建設について、資料がほとんど残っていません。のべ7,000人にもなる人が携わったと言われていますが、外国人が何人いて、どの程度事故が発生したのか、賃金がどう支払われたのか、分かっていないそうです。
この松本でも戦争の悲劇があったと思うと他人事でなく、悲しい気持ちになります。
松本にも、こんな戦争経験と遺産があることを知って欲しいと思います。
松本強制労働調査団による地下工場跡の記録動画は、信濃毎日新聞社のYouTubeから見ることができます。[https://www.youtube.com/watch?v=M-mbnf5jV0U]
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