2015.01.10 [ 歴史・祭・暮らし ]
年の初めに 【井月さんのこころ96】
蓮華(れんげ)は御仏の台座。真水には咲かず、濃い泥水でこそ大輪に咲く蓮の花です。
2014.07.26 梅雨明けの頃 【井月さんのこころ70】
芭蕉翁の『芭蕉を移す詞』にもありました。
2014.11.15 晩秋の風と残菊に 【井月さんのこころ86】
「菊は東雛に栄え、竹は北窓の君となる。牡丹は紅白の是非にありて、世塵にけがさる。荷葉は平地に立たず、水清からざれば花咲かず。いづれの年にや、住みかをこの境に移す時、芭蕉一本を植う。風土芭蕉の心にやかなひけむ、数株の茎を備へ、その葉茂り重なりて庭を狭め、萱が軒端も隠るばかりなり。人呼びて草庵の名とす。 ……(中略)…… ただその陰に遊びて、風雨に破れやすきを愛するのみ。」
ここに登場した「荷葉」こそ「蓮」のことです。
以心伝心(いしんでんしん)、迦葉(かしょう)と荷葉(かよう)のお話でした。
禅の悟りに近い辺りに辿り着いた井月さんはこう詠んでいます。
世事はみな人に任せて花に鳥 井月
この句の評釈について、井上井月研究者である竹入弘元氏の「井月の魅力 その俳句鑑賞」(ほおずき書籍)から引用させていただくと・・・、
世間の事はみんな人に任せて、自分は花に鳥に心遊ばせよう。花鳥風月の自然を相手に詩歌をつくる風雅な生活は多くの人の望むところ。しかし、現実には世事にまみれ、仕事に追われて生涯を終える。
思い切って一切を捨て、出家。井月は僧侶にはならなかったが、西行・芭蕉の世捨て人の系譜に連なろうと。しかし、それは困難を極める。
(花・鳥は雑の部だが、新年の末尾に置く)
年々や家路忘れて花の春 井月
とも。
しかし、悟りに程遠い身には、
世事の嵩稲積む間無き年始かな 青巒
今週の結びは、愚良子先生が詠んでいるこの句です。
「春日愚良子句集」から
藁仁王も老爺も徹底朴念仁 愚良子
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