2025.01.11 [ 自然・観光地文化・伝統松本地域の市村松本農業農村支援センター ]
とっ、殿っ!チンパンジーではありませぬぞ!! ~なから4,000石でなっちょ? 幻?!の松本県庁はどこ?~
おいっす!
ん? 声が小さい! もう一回いってみよ~! おいっす!
今日は土曜日なのでこのあいさつで。
サボテン🌵といす💺がでてくるやつじゃないよ😛
(次いってみよう! だめだこりゃ・・・。 火事や停電もあったなぁ。)
あ、中の人の「いけずないけす」っす。
ブログの当番ってことでネタ見つけなきゃ・・・と連日お散歩しながら思案してるっすが、いいネタあってもすでに書かれてしまったりして、全然捻り出せずここ数日パソコンと睨めっこでもうネタ切れかもっす💦
・・・ということで、「風呂入れよ! 歯磨けよ! 顔洗えよ! 宿題やれよ! 風邪ひくなよ! また来週!~♪」
・・・コラコラっ!!バカモニョ!
いけずないけす【以下い】「ん? 熊五郎さんに八五郎さんじゃないっすか。いかりやさんみたいに出てこられたからびっくりしたっす💦んで、松本まではるばるどうしたんっすか?」
熊五郎【以下熊】「おぅ、水くせぇからいつもどおり八っつぁん、熊さんでいいよ。
しっかし、オメぇはあいかわらずいい加減なやっちゃなぁ・・・ちゃんと仕事しろぃ(笑)
んで、八っつぁんが『そうだ、信州に行こう』ってんで、お伊勢参りの帰りにちょっくら足をのばしてみたんよ。」
【い】「いやあ、あいかわらずいい加減さだけが取り柄なんで😛(笑)しっかし、さすがにご健脚っす。んで、八っつぁん、JRなんたらのCMコピーみたいなこと言うっすね」
八五郎【以降八】「じぇいあーる?なんだいそれ?なんかうめぇ食いもんなのか?・・・まぁ、いいや。それよりここって松本藩だからお殿様が治めてるって思ったが、なんか違ぇみてぇだなぁ」
【熊】「おぅ、そーいやぁ信州に入ってから至るところで『ながのけん』ってのを耳にしたけど、なんなんだい?」
【い】「えっっと・・・(汗)。 (以下 心の声)やべぇ全然わからん💦 かくなる上は、『教えて!長屋のご隠居さん!!だ!』 」
【い】「おいっす。ご隠居さん、また教えて欲しいっす。・・・かくかくしかじか・・・。」
【ご隠居】「おぅ、それはのぅ、○▶︎〇∀※?!・・・という話ぢゃ。」
【い】「かたじけねぇっす💦 (以下心の声)ご隠居の受け売りでなんとかお茶を濁せるぞぃ(笑)」
【い】「 ゲフンゲフン(わざとらしい咳払い)
熊さん、八っつぁんが今いる信州こと信濃国って、江戸時代はここ松本地域だけでも、松本藩、高遠藩、幕府領(いわゆる天領)、諏訪の高島藩の知行所(百瀬、埴原)といろいろ入り組んでるっす。松本以外の他の地域も善光寺などの寺社領もあって、ごった煮の状態だったっす」
【熊】「松本に着くまでにいくつか陣屋(旗本領や大藩などの知行所の政庁が置かれた屋敷)も通ったから、それはなんとなくわかるな」
【い】「んで、時を進めて、慶應3年10月14日(1867年11月9日※西暦は太陽暦)将軍慶喜が政権を朝廷に返上をする『大政奉還』がなされて、ここからいろいろ大きく動き始めるっす」
【八】「『よしのぶ』っちゃ、ぢゃいあんつの監督だったろ?なんでやめるにお上に話せにぁなんないんだぃ?」
【熊】「八っつぁんバカだなぁ、そりゃ『よしのぶ』違いだ💦こりゃ べいすぼぅるの話じゃなくって、御公儀絡みの話だぞ。」
【八】「ん?そうなんかい。俺ぁーてっきり、『よしのぶ』から『たつのり』に監督が変わった時の話かと・・・。」
【い】「おふたりともよく知ってるっすね(笑)
ちなみに、そのチームの第4代と第6代の監督は今の松本市出身の方すっね。(NPB史上初の三冠王で野球殿堂入りもしてるっす)旧制松本商業(今の松商学園高校)のエースで4番として1928年夏の甲子園で全国制覇の経験もあるっす。
(戦前の長野県の高校(旧制中学)野球はめちゃくちゃ強かったっす!・・・もちょっとがんばれ!!現代長野県の高校球児!!)
あ、話を戻すっすが、慶應3年12月9日(1868年1月3日※西暦は太陽暦)王政復古の大号令で明治天皇の名で天皇親政が宣言され、新政権が発足するっす。(いわゆるクーデターってやつっす)そして、慶應4年1月に新政府は旧幕府領を新政権に背いた朝敵各藩の所領と合わせて没収するっす。ここ松本については、旧幕府領と高島藩の知行所(百瀬、埴原)が新政府に命ぜられた尾張藩(名古屋藩)の管轄になったっす。」
【熊】「ほかは、そのままってことかい?」
【い】「まぁ、そんなところっす。
ただ同年8月に新政府は信濃における名古屋藩の任を解いて伊那県を設置し(伊那郡飯島の旧陣屋に県庁を置く)、藩は引き続き殿様が治めていたので、松本では松本藩の中に伊那県が飛地のように点在する状況になったっす。」
【熊】「するってぇと、まだ『ながのけん』ってのは出てこないんだな」
【い】「もちょっと先の事になるっす。
んで、明治元年(1868年)に江戸が『東京』になって年号が『明治』と改められるっす。
で、この頃松本藩でも幕府側につくか新政府側につくかですったもんだあったようですが、新政府側につくことを決めるっす。
明治2年(1869年)に新政府が大名『藩主』の土地『版』と人民『籍』を朝廷に返還させる形で『版籍奉還』っうのが行われるっす。
信州では松本藩の当時の藩主戸田光則(とだ・みつひさ)が先陣を切って版籍奉還を申し出て、これが認められて松本藩の知藩事(ちはんじ)に任命されるっす。
当時の松本藩の石高※の6万石からするとごくわずかの3,800石程度の俸禄(給料)をうける地方官の1人になるっす」
🐍🐍🐍🐍🐍🐍🐍🐍 長屋のご隠居のちょいと蛇足な??おはなし 🐍🐍🐍🐍🐍🐍🐍🐍🐍🐍
※石高とは・・・土地の生産性をお米に換算して表したもので豊臣秀吉の太閤検地以降普及した
石高=石盛(こくもり)×面積で算出
石盛とは・・・一反(段)あたりの標準収穫量のことで、時代により若干異なるが、上田(「じょうでん」・・・信州だからといって『うえだ』ではない)一石五斗、中田・・・一石三斗、下田&上畠&屋敷地・・・一石一斗、中畠・・・九斗、下畠・・・七斗 として計算するケースが多いみたいだ)
1石ってどんだけだかピンとこない方もいるだろうから・・・1石は大人1人が一年間に消費する米の量と言われ、1食に米1合消費として1日3合となり、3合×365日=1,095合≒1,000合として定められたそうぢゃ。
(現代人こんなに米食ってるのか?もっと米食えってご先祖さまに言われそうだのぅ💦)
1石=10斗=100升=1,000合
1石の重さは150kg、米俵で2.5俵
なので、先に挙げた俸禄の3,800石だと米俵で9,500俵という計算となる。(元の6万石だと150,000俵)
この辺の細かいおはなしは、学校の先生に聞いてみよう。もっと詳しくわかりや〜すく教えてくれるはずぢゃ。
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【八】「そりゃてぇへんだ!よくわからねぇがお殿様がチンパンジーになっちまうんだな💦」
【熊】「あんごー!八っつあん落ち着け、チンパンジーにされちまうんじゃなくて、お殿様が『ちはんじ』っうのにお上から任命されたんだよ」
【八】「ん?そうなんかい?・・・『あんごー!』って熊さんどこの言葉使ってんだぃ💦(笑)・・・それって確か岡山藩あたりのお国言葉だよなぁ」
【い】「藩主がおさるにされては、たまったもんじゃないっす(笑)
で、この版籍奉還で『藩』も新政府の組織の一つ(地方行政組織)として位置付けられるっすけど、この時期に全国各地で頻発した世直し一揆が起こったりして、藩と県が併存する政治体制は長続きしなかったっす」
【熊】「なんかいろいろてぇへんな時代なんだなぁ💦」
【い】「明治4年7月(1871年)に、『藩』を廃止し『県』を設置する『廃藩置県』が行われ、知藩事は罷免されて東京に居住させられ、代わりに中央政府が県令(今でいう知事)を任命し、派遣する形になったっす。これにより、松本藩は『松本県』となって、県庁を松本城の本丸に設置したらしいっす。
あ、ちょっと話はそれちまうですが、松本城については、こちらを見てもらうといいっす。」
【熊】「うーむ・・・。なんかおめぇらしい、ちゅっくれぇな内容だなぁ(笑)そーいやぁ、おめぇに会う前に松本城は見てきたぞ。漆黒の城で質実剛健って言葉が似合う雰囲気だったなぁ。八っつぁんは天守に登ろうとして慌てて天井にアタマぶつけてたんこぶこしらえて、災難だったみてぇだけどな。」
【い】「かたじけねぇっす😛(笑)『ちゅっくらい』なんて信州の言葉よく知ってるっすね(笑)
廃藩置県当初、この松本地域は先に話した『伊那県』、『松本県』のほか、旧高遠藩の『高遠県』、旧高島藩の『高島県』が混在する状態になるっす。
で、時代が少し遡るっすが、明治3年(1870年)9月に伊那県から中野県を分け、信濃の東・北部(東北信地域)を管轄下とし、伊那県は中・南部(中南信地域)が管轄となったっす。で、中野県は明治4年6月に県庁を長野村の善光寺町(現在の長野市)に移転させて、『長野県』と改称したっす。」
【熊】「ようやく『ながのけん』が出てきたが、『松本県』とは別もんなんだな?こりゃどういうことだい?」
【い】「これはもちょっと、時間を進める必要があるっす。実は松本県ってとっても短命で、半年経たずに統合されるっす。これは、明治政府の方針である程度まとまった規模にする方針に則って行われたらしいっす。
まずは明治4年11月に信濃国は『長野県』と『筑摩県』に統合されるっす。松本県は、伊那県、高遠県、高島県、飯田県などと飛騨国(高山県)と合併して筑摩県となるっす。
んで、県庁は松本県と同じく松本城本丸に設置され、支庁が飯田と高山に置かれたらしいっす。」
【八】「チューキ!チューキ!て、てぇへんだ!これを見てくれぇ!熊さんと行った時のだが、本丸がねぇっ!県庁や知事はどこにいたんだぃ?」
【熊】「チューキって・・・八っつぁん、そりゃ上方の『待った』とかのお国言葉で信州の言葉じゃねぇぞ(笑)でも確かに本丸はなかったな。ここにいたんじゃねぇか?」
【八】「なーん。違うちゃ。こんなすてきな建物(笑)城のそばにはないっちゃ」
【熊】「八っつぁん、それも信州のお国言葉じゃねぇぞ(笑) ・・・でも、この建物はなんだぃ?」
【い】「これは、後に筑摩県が長野県に明治政府の主導で併合されるっすが、合併後の『長野県』の建物で『松本合同庁舎』って言うっす。なのでここには知事はいませんが局長ならいるっす」
【八】「局長ってことは、あの新撰組の屯所かい?芹沢鴨?近藤勇? やべぇことしたら斬り捨てられちまうぞ💦 くわばらくわばら💦」
【い】「その2人ともすでに亡くなってるので、それはねぇっす(笑)ここは新撰組の屯所じゃねぇっすし、今いる局長は、『めがねの局長』👓で、ぶどうとかいろんな果樹を育ててるので「ほ場」の枝は斬る(⁈剪定作業)かもしれねぇっすが、お侍さんじゃないので、人は斬らねぇっす(😛)
まぁ、でもブログへの思いがとっても深いので強いて言えばお侍さんではなくとも、さしずめブログ奉行(😛)って感じっすかね。当番すっぽかすと厳しい?お裁きが・・・『成敗っ!⚔』てな具合に(笑)」
【熊】「ん?じゃあ、さしずめ「めがね組」👓(?)の『局長』がいる屯所ってんじゃねぇんだな。んで結局、どこに松本の県庁ってのはあったんだぃ?」
【い】「松本城の天守そばに、本丸御殿跡があるっす。今は焼失してしまいましたが、そのあたりにあったと言われているっす。(明治9年[1876年]6月19日に火災で焼失)
んで、この火災も背景の一つらしいっすが、さっき言ったように、筑摩県は明治9年(1876年)8月に内務省主導の大統廃合で飛騨国(高山)分を岐阜県に渡し、長野県へ併合される形で新しい『長野県』が誕生し、信濃国一円が一つの県域となったっす。
なので、県庁が松本にあった期間は、廃藩置県のあった1871年から5年余りとなるっす。」
【熊】「なるほどねぇ、歴史に『もし』はねぇが、筑摩県庁が火災に遭わなかったら、松本に県庁があったかも知れねぇんだなぁ。そう考えると松本ってロマンを感じる街でもあるなぁ。」
【い】「そ、そうっすね。(心の声)何とかご隠居の受け売りで切り抜けられた💦やれやれ」
【八】「そろそろ善光寺さんに行きてぇんだが、松本からは善光寺街道を行けばいいかな?」
【い】「そうっす。善光寺街道を北上して、篠ノ井追分から北國街道に入れば、そこからは二里半ちょいっす。だけどせっかくだから、松本駅から『しなの』でいったらあっという間に善光寺さんに行けるっすよ」
【熊】「ん?なんだい?『しなの』ってのは?」
・・・ということで熊さん、八っつあんを松本駅まで送って、2人を特急『しなの』に乗せてきました。
初めて松本駅舎と電車を見た2人は目を丸くして驚いていましたが、そんな2人の善光寺へのドタバタ道中については・・・また、別のおはなし。(気が向いたら・・・というか向くかしらん?・・・なんてな。)
おしまい。
★おまけ★
地図などの提示に協力いただいた「長野県立歴史館」(千曲市屋代 しなの鉄道「屋代駅」から徒歩約25分 長野自動車道「更埴IC」から車で約5分)では、本日(1月11日)から佐久間象山(幕末の松代藩士で兵学者「東洋の道徳 西洋の芸術」などの言葉を残し、吉田松陰や坂本龍馬など多くの偉人を育てた)に焦点をあてた企画展が開催されるっす。熊さん、八っつあんも善光寺参りのついでに足をのばすみたいっす。詳しくはこちら(長野県立歴史館HP)をごらんくだされ。
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