2015.10.31 [ 自然・山・花 ]
大自然の営みの中に 【井月さんのこころ138】
井月さんのこころ シリーズ その138
前回その137で井月さんが若かりし頃(31歳)に詠んだ善光寺大勧進の吉村木鵞(もくが)の母親への追悼句を紹介しましたが、同じ頃に詠んだ句で吉村木鵞編の句集『きせ綿』に載っている秋の句があります。
稲妻や藻の下闇に魚の影 井月
以下、この句の評釈について、井上井月研究者である竹入弘元氏の「井月の魅力 その俳句鑑賞」(ほおずき書籍)から引用させていただくと・・・、
稲光の瞬間、水草の下闇に隠れていた魚がはっきり見えた。藻は水草の一種。中七「網にこたへし」ともあり、嘉永六年(一八五三)開版、木鵞編句集『きせ綿』に掲載。時に井月三十二歳。作句年月が判明している初期の句。
木鵞は、長野善光寺大勧進の役人。著名な俳人。この句の碑が三峰川右岸に、同じく「稲妻のひかりうち込夜網かな 井月」が 左岸に建てられた。
(稲妻・秋)
写真は、天竜川に唯一残る簗(やな)漁です。中川村の「天竜川の風情を守る」C-Watの皆さんによる河川環境保全の取組は遡回その88で紹介しました。
2014年11月29日 神無月の揺れに 【井月さんのこころ88】
さて、井月さんが編んだ俳諧三部作については、遡回その30に記しました。
2013年10月12日 落ち栗のように【井月さんのこころ30】
井月さんが俳諧三部作の最初『越後獅子』を編んだのは、42歳のとき。
文久三年(1863年)五月、高遠藩家老の岡村菊叟(鶯老人)さんを訪ねて序文を書いてもらい「越後獅子」と名付けていただいたようです。
岡村忠香(ただはる) 寛政12年(1800)~明治18年(1885)
号:菊叟、鶯老 尊王家、国学者、高遠藩家老(天保11年(1840)~)
文久三年のさつき、行脚(あんぎゃ)井月、わが柴門を敲(たたき)て一小冊をとうて、序文を乞ふ。わぬしはいづこよりぞと問へば、こし(越)の長岡の産なりと答ふ。おのれまだ見ぬあたりなれば、わけてとひ聞(きく)べきふしともなし。・・・・(中略)・・・・・これもかの角兵衛がたぐひならんかと、此小冊に越後獅子とは題号しぬ。 鶯老人
そして、翌年の元治元年(1864年)九月刊、俳諧三部作の二作目『家づと集』の序文は、滞在先の善光寺宝勝院住職の梅塘さんに書いてもらっています。(「家づと」とは家へ持ち帰るお土産のこと。)
捨(すてる)べきものは弓矢なりけり、といふこゝろに感じてや越の井月、入道の姿となり前年、我(わが)草庵を敲(たたき)てより此(この)かた・・・・・(中略)・・・・・・・秋も良(やや)碪(きぬた)の音の遠近(おちこち)に澄(すみ)わたるころ、緒家の玉葉を拾ひ集め、梓にものして、古郷へ錦を餝(かざ)るの家づとにすゝむる事とはなりぬ。
元治甲子 菊月 梅塘
最後の『余波(なごり)の水茎』は明治十八年に発行。跋文は自ら書いており「古里に芋を掘て過さむより、信濃路に仏の有りがたさを慕はむにはしかじと、此伊那にあしをとどめしも良(やや)廿年余りに及ぶ。・・・・・」として、結びにわが身を窪地に転がる栗にたとえた「落栗の座を定めるや窪溜り 井月」の句を載せています。 晩年の井月さん64歳、この前年、太田窪の塩原梅関宅に「厄介人」として戸籍を得て、伊那の地に骨を埋める覚悟となったようです。
こうしてみると、井月さんが、「古里に芋を掘て生涯を過さむより、信濃路に仏の有りがたさを慕はむにはしかじ」と、伊那に滞在することになったのは、明治十八年から遡る二十年前の慶応元年(1865)頃で、それ以前にも善光寺界隈を歩き、「弓矢を捨てて」僧形で行脚を始めたのは、40歳代のはじめ、『越後獅子』を編んだ文久三年(1863年)頃からと読み取れます。
この稿の初めに登場した「稲妻や」の句は、更に遡る30歳代のはじめで、既に善光寺界隈を訪れ、俳句を詠んでいたことが分ります。そしてもう一つ紹介しておきたい、越後出身の井月さんらしい秋の句があります。
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