2014.06.24 [ 地域振興局 ]
木曽山用水水枡検査
農地整備課の中年Yです。
「木曽のナァー 中乗さん、木曽山用水の水枡検査はナンチャラホイ」
(おなじみの木曽節を替え歌にしてしまいました・・・)という訳で、
私こと中年Yは、伊那の勤務通算7年目にして、初めてこの検査に参加しました!!
(注:中年Yは水枡検査とは何であろうか?という疑問を、この唄のナンチャラホイに重ねてみましたが、もともと、ナンチャラホイとは「何であろうか?」という意味の他にも、ヘブライ語の「ああ、この世が良くなりますように!」と願いを込めて唱える、祈りの言葉だという説もあり、なんとまあ、奥が深い。)
この水枡のある場所は旧木曽郡楢川村つまり現在は塩尻市です。
ななな、何故、松本管内の水枡検査に伊那の人が?と思う方もいらっしゃるでしょう。
実は、そこが重要なんですよ!!
「木曾路はすべて山の中である」の書き出しで知られる、島崎藤村の小説「夜明け前」。
それでは、歴史を紐解くため、時代を遡り、日本の夜明け前とも言われる
幕末から明治初期にタイムスリップしてみることにしましょう!!
「木曾へ 木曾へと~積み出す米は 伊那や高遠の余り米」
・・・この歌は伊那の人にとって聞き覚えのある伊那節だ!
伊那節は、もともとは権兵衛峠を往来する馬子たちが歌った“馬子唄”だと言われています。
木曽地方は、中山道が通過しているため各宿場が栄えましたが、米の生育に適した土地が少なく、
米の生産が少なかったため、米不足に悩まされました。
このため古くから伊那谷から中央アルプスを越えて木曽地方に米が運ばれていました。
「そんな、ご無体な。お代官様。なんとか、我が集落にも命の水を~!!」
しかし、この高遠藩の運ばれる米を見ては、羨んでいたのが
伊那市西箕輪の上戸(あがっと)・中条集落の方々でした。
上戸・中条集落は伊那谷にありながら松本藩の所領となっていたので、
近接する河川から水を得る権利がなく、享保15年(1730年)頃から
明治2年(1869年)までの間に水田に引水する訴えを9回起こしたという記録が残っています。
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