2013.06.29 [ 食・農・旅 ]
蚕が糸を吐くように【井月さんのこころ15】
井月さんのこころ シリーズ その15
夏至の6月21日、箕輪町の北條寛さん御夫妻が蚕を飼っておられるとお聞きして、お訪ねしました。JA上伊那・営農企画課の北原さんに案内していただきました。
ちょうど春蚕(はるご)が第四眠から起きて十分に桑を食べ終えたところで、息子さんも手伝って上蔟(じょうぞく)の作業が行われていました。
四月の凍霜害の影響で桑の生育が悪く、例年よりも飼育量は少ないそうですが、高級呉服に使われる細い糸を吐く品種で、大きさの揃った元気な蚕が、食べ終わった桑枝から振るい落され、蔟(まぶし)に付けられているところでした。この後、繭になり10日間くらいで出荷されるとのことです。
上伊那は、明治から大正、そして昭和の初めにかけて、養蚕がたいへん盛んな地域でありました。生糸商人に対抗するため、養蚕農家は団結して組合製糸を作りました。これが農協運動の発祥とも言われ、いくつもあった組合製糸を統合した「龍水社」は、地域経済を牽引する役割を果たしてきました。
しかし、生糸価格の低迷などから養蚕農家は減少の一途をたどり、龍水社は平成9年10月に操業を停止し、平成10年4月に蚕糸業法・製糸業法も廃止されたことにより養蚕農家が激減し、現在は、たった4戸になっています。
龍水社は、JA上伊那に承継され、現在生産された繭は、群馬県の碓氷製糸農協や岡谷市の(株)宮坂製糸所へ出荷されているそうです。また、呉服販売は龍水呉服(JA上伊那呉服販売課)に引き継がれています。
また、平成14年4月、駒ヶ根市によって伊那谷の養蚕文化・歴史の伝承、都市と農村の交流拠点として、駒ヶ根シルクミュージアムが東伊那に開設されました。
駒ヶ根シルクミュージアム http://www.cek.ne.jp/~shiruku/
さて、井月さんが「蚕」や「繭」を詠んだ句はたくさんあって、井月研究家で俳人の春日愚楽子(かすがぐらし)さん曰く「俗っぽさに迎合した駄句が多い」とのことですが、それは蚕や繭を寿ぐ『ほかいびと』として生きた井月さんが放浪の身で寝食を得るために、蚕が糸を吐くように「ことのは」を紡いで歩き廻った結果なのでありましょう。
「蚕」は春、「繭」や「蚕上り」は夏の季語なのですが、もちろん夏蚕(なつご)や秋蚕(あきご)も競うように飼われていた時代のことですから、お蚕様に与える桑の葉が育つ期間はずっと身近に蚕や繭が見られたことでしょう。
桑くれて機嫌養う蚕かな 井月
睦じう込合って居る蚕かな 井月
以下、後者の句の評釈について、井上井月研究者である竹入弘元氏の「井月の魅力 その俳句鑑賞」(ほおずき書籍)から引用させていただくと・・・、
蚕は卵からかえった当初の毛蚕は、実に小さい。それが数日毎に休眠を繰り返し、第四眠(庭休み)が終わって、庭起きともなるとどんどん桑を食って大きくなる。やがてからだが透き通ってくると、繭を作り始める。絹は明治日本の代表的輸出品で、農家は養蚕に活路を求めた。そういう蚕の、ろじ一杯に密集の様を活写。蚕は穏和で争うことをしない。観察眼の鋭さ。
(蚕・春)
繭白し不破の関屋の玉霰(たまあられ) 井月
続けて、この句の評釈についても同様に引用させていただくと・・・、
養蚕を始めて一カ月余、固く白い見事な繭。例えれば、不破の関屋に降りかかる玉霰のようだ。不破の関は、岐阜県不破郡関ヶ原町で昔 東山道を固めたが、早く廃止された。壬申の乱、関ヶ原の戦の古戦場でもある。井月が若いころここを通ったとしても、関屋があるはずがない。古典に拠っている。
(繭・夏)
さて、我が家近くの津島神社の境内に蚕の神様「蚕玉様」の立派な祠が建っており、養蚕が盛んだった頃は大切にされていたのでしょうが、現在は、忘れ去られた存在になってしまっています。
「蚕玉様」の隣には学問の神様「天神様」の石碑が建っており、こちらの方は、毎年梅雨のこの時期に子供たちがお祭をし、現在でも伝統のある古い版木で刷ったお札を配ってきてくれます。
子供の頃の天神様の思い出は、ちらし寿司のお弁当と山じゅうを駆け回った陣取り鬼ごっこ。帽子の庇の向きによって捕まえられる相手が異なるルールでした。
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