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Vol79■江戸時代の面影残す宿場町「海野宿」を散策

桃の節句も過ぎ、厳しい寒さも少しずつゆるんできました。
山に行けばウィンタースポーツがまだまだ楽しめて、町を歩けば春の匂いにワクワクする…信州はそんな欲張りな季節が到来です☆
春の足音が近づいてきた今回は、あたたかな日差しに誘われて「ちょっとお出掛けしたいな」そんな気分にオススメの場所を紹介しますね。


重要伝統的建造物群保存地区に指定されている海野宿


◆江戸時代の町並み♪北国街道の宿場町
東御市にある海野宿(うんのじゅく)は、江戸時代に北国街道の宿場町として栄えた場所で、海野格子や旅籠屋造りの趣きある建物が今も残っているんです。

ちなみに北国街道とは、徳川家康が江戸と地方を結ぶために整備した五街道(中山道、東海道、奥州街道、甲州街道、日光街道)から派生した脇街道のひとつのこと。
追分宿(軽井沢町)で中山道から分かれ、善光寺を抜けて直江津(新潟県上越市)までつながっていて、中山道と北陸道を結ぶ重要な役割を果たした街道だったんですよ(現在の国道18号線とほぼ同じルートです)。

主にどんなことに利用されていたのかというと、北陸諸大名の参勤交代や佐渡で採れた金の輸送、善光寺参詣のお客さんなどなど…。人の往来がとても活発だったことが分かりますよね。

海野宿は、そんな北国街道に1625年に開かれました。
最盛期には旅籠が23軒も連なるそれは賑やかな宿場町だったそうです。


加賀百万石の前田候も宿泊した海野宿本陣。隣接する田中宿との合宿(あいしゅく)としてスタートした海野宿だったが、1742年に田中宿が大洪水に遭ってからは海野宿に本陣が移された

◆旅人がお蚕さんに代わり…
時代は移り変わり明治時代。
宿場町として栄えた海野宿にはお客さんの数はちらほらとしか見られないように…。
それもそのはず、この時代には鉄道などの交通機関が発達して長距離の移動もぐっと簡単になり、旅籠屋にお世話になる必要がなくなったのです。
「新しい産業を見付けねば」と思案し取り組んだのが、当時の花形産業だった養蚕。お蚕さんはかつて旅人が疲れを癒した広い部屋に陣取り、海野宿は養蚕の村として再生しました。

海野宿には、屋根の上に小さい屋根(気抜き)が乗っている建物がとても多いのですが、これは養蚕業が盛んだった名残り。
蚕の部屋をあたためるため、火を炊く際に出る煙の逃げ道として作られたものなんですよ。


換気に欠かせない「気抜き」

◆ここが見所!
実際に歩いてみると、出桁(だしげた)造りや長短の木材を組み合わせた海野格子、旅籠屋造りの造形の美しさに、シャッターを切る回数も多くなること間違いなしです。
さらに、注目して欲しいのが屋根にあって一際目を引く「卯建(うだつ)」。


うだつと一口にいっても種類はさまざま。本うだつ(左)は、江戸時代に防火壁として造られたもの。明治時代に造られた袖うだつ(右)は装飾に重点を置いている
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