楽園信州

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<VOL.231>I♥信州(あいラブしんしゅう)

■人生観を変えた師匠からの言葉

在学中、日々、木と向き合い、家具製作に精を出していた峰尾さん。
卒業後、家具職人として生計を立てている現在でも修行の日々だと語ります。

峰尾さん:「僕はとっても不器用だったんです。ノコギリを切らしても斜めに入るし、ほぞ切っても穴は倍ぐらいあいちゃうし。それで、三ヶ月ぐらいで諦めようかと思ったんですが、その時、師匠がポンポンと僕の肩をたたきながら、『物づくりってのは不器用じゃなきゃだめだよ。器用なやつは絶対上手くならない。いい家具を作って、今木工家で頑張っている奴はみんな不器用だった。俺も不器用だと散々師匠から言われたよ。』と言われて….。それは優しい言葉で、人生観が変わりましたね。」

自分が不器用だという人は、何回もやらないと上手くならない。飽きずに同じことを何回も練習する。反対に、器用な人は一回で物が簡単に出来てしまうのでだんだんつまらなくなってくる、自分で作品をつくっても嬉しくなくなってしまう・・・。
そんな師匠からの温かい言葉と、音楽活動をしていた当時に感じたことがリンクし、物づくりの楽しさにのめり込んでいった峰尾さん。


家具に使う材木は何十年も寝かせてからでないと使えないのだとか。
倉庫には家具として生まれ変わる日をじっと待っている材木達が眠っています。

峰尾さん:「初めてつくったものが小さな箱だったんですが、とても嬉しかったことを覚えています。
音楽も同じで、器用な人の音楽より、下手でも一生懸命やっている人の音楽の方が感動する。
そこがリンクしたんです。絶対家具はつくれない、と思うくらい酷かったのですが、そういう想いがあったからこそ、未だに修行。つくった家具にこれでいい、なんて満足はないです。」

在学中は、卒業後、職人として居を構えるところも考えなくてはなりませんでした。
工房の条件としては、作業ができるだけの広さがあることと、床が板張りであること。
この条件を満たしているところは・・・と考えたときに、思いついたのが廃校になった校舎でした。

峰尾さん:「自身の工房ははじめから信州にと決めていました。
僕は関東人なので、信州にものすごい憧れがあるんです。田舎といえば信州というイメージがあって、ちょうど学校も上松町だったのでちょうどいいんじゃないかと。」

当時、長野県内には100市町村ほどに60もの廃校があり、峰尾さんはひとつひとつ、市町村に電話をかけ、見学させてもらえないか、連絡を取りました。
北は栄村から南は天龍村まで・・・物件探しの日々の果てに辿りついたのが、北相木村の小学校でした。

■東京の顔から北相木村の顔へ・・・日々の真摯な暮らしが伝わった

昭和62年に北相木村に移住してから今年で29年と、今では立派な村の住人である峰尾さんですが、初めの一年目は、地域住人から警戒され口を聞いてもらえないという経験もありました。
昔の文化、素朴な自然の暮らしが残る北相木村。
東京の顔から、北相木村の顔に変わった瞬間、北相木村と繋がったんだ、と峰尾さんは話します。

峰尾さん:「当時、東京から村に引っ越してきた人は、有史以来いなかったし、いても事情ある人なんだと。髪の毛が長くて、髭を生やして、風体が怪しいし、広い校舎で夜中に何かコンコンとやってるぞ、と疑われましたね。それで、履歴書を駐在さんに出して、今までの経歴を全部お話ししたんです。
毎日でも遊びに来てください、と鍵もかけずにとにかくオープンにしました。そのうちにだんだんと駐在さんはじめ、地域のみなさんに本当に家具職人としてやってるんだということを分かってもらうことができました。材木屋さんも、駐在さんに紹介していただいたんです。」

地域のことを全く分からない者が、地域に入るということを身をもって経験し、謙虚さと誠実さをもって地元の方々と信頼関係を築きあげる…それは、今では「昔からここにいたと思っている」と言われるほど、強い結びつきになりました。
地域のために働こう、という気持ちになってはじめて住人になれるという峰尾さんの言葉には、経験に裏打ちされた想いが込められています。

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