2014.02.13 [■I ♥信州(あいラブしんしゅう)]
<VOL.248>I♥信州(あいラブしんしゅう)
大地に根を下ろし、明るい農村を作る(1)
「I♥信州」は、長野県外から信州へ移住された方に、移住のきっかけや信州での暮らしの様子をお伺いし、長野県の魅力をさらに伝えていこうというコーナーです。
第20回目のI♥信州は、2009年に東京都東村山市から小川村に移住された大沢収(シュウ)さん・綾子さんご夫妻にお話をお聞きしました。
大沢さんは現在、ご自身の農園「麦ダンス農園」で、有機栽培の野菜作りに取り組んでいます。
奥様の綾子さんは育児の傍ら、麦ダンス農園で収穫された野菜の出荷や、広報活動でご主人の農業を支えています。
西に北アルプスを望む冬晴れの青空の下、「日本一美しい村」にも選ばれた小川村のご自宅で、大沢さん焙煎による香り豊かなコーヒーを頂きながら長野県へ移住されるまでの経緯を伺いました。
<時計の針を少しゆっくりにする生き方ができる場所・小川村>
東京都多摩地域にある東村山市。都会の喧騒から少し離れたこの地で大沢さんは生まれ育ちました。地元の学校を卒業し、20代前半はビルの屋上に掲げられ、ランドマークとなるような巨大な屋外広告の施工会社で約5年間仕事に精を出していました。
休日には、多忙な仕事の合間をぬって大学時代から始めたサーフィンでリフレッシュ。もともとストイックに突き詰める性格の大沢さん、サーフィン中心の生活の中で、日本各地の有名なサーフィンスポットを巡り歩くうち、サーフィン先進国であるオーストラリアへ旅立つことを決意します。
約5年在籍した施工会社を辞め、1年ほどオーストラリアで生活した後、帰国。その後は、前職の会社へ再び勤務し、実力を認められて、現場責任者として様々な案件を任されるようになりました。
しかし、もっとモチベーションを上げる仕事へ就きたいと30歳の頃に東京・福生市のビール醸造会社へ就職。かねてからのビール好きが高じて、飲むだけにとどまらず、もっとビールを知りたい、自分の手でビールを作ってみたい!という想いから、転職を考える以前より埼玉県小川町のビール醸造所へ見学に訪れていた大沢さん。そのビール醸造所が持つ自社の麦畑で、麦穂が風に揺れている姿に感動したと言います。
大沢さん:「麦畑の光景はまるで麦が爽やかな風に揺られダンスをしているように感じました。
それを見ていると麦も生き物なんだということに改めて気づいたんです。
単純に普段ビールを飲むときはそんなこと感じられないし、大規模生産だから均一な状態で作られているので感じることもないですよね。小川町で見たビール醸造所は小規模ながらも丁寧にビール作りを行っていて、生きたままの酵母を使うので発酵の度合いで微妙に味が違ったり…生き物なんだなぁって思ったんです。」
大沢さんが見学に訪れた小川町の地ビール醸造所は、自社農園で栽培された原料を使い、本当の意味での地ビール作りをしようと取り組んでいました。しかし、地ビールを生産する際にすべて地元産の原料でまかなうことはなかなか難しく、材料のすべて、もしくは一部を輸入し、水だけは地元産を使うことも少なくないというのが現状。『水が地元のものというだけで、本当に地ビールと呼べるのか…』と疑問を持ちました。
大沢さん:「地ビールを作ることにモヤモヤとした気持ちが沸き上がって、当時は自身の暮らしの様子も替わり、とりあえず東京から離れて、少しスローに生きられる場所へ行こうと思ったんです。
学生時代から、バリやカナダ、アメリカ、インド、ベトナムなど様々な国や都市を巡りましたが、他の国を見れば見るほど、やっぱり日本が一番だと感じていたので、海外で生活する考えはありませんでしたね。
東京近郊ではないところで、山や自然がある“田舎”という感じの場所へ、自然のリズムで生活できる所へ行きたいと考えまして、思い浮かべたのが長野県。長野にはたまたま友人が住んでいたので、彼に連絡をとって相談しました。」
そして、その友人から、長野県北信地区の、あるNPOが都会からの若者を募集している、という情報を得ました。NPOの事業は、まさに今でいうところの「地域おこし協力隊」。
参加から3年後にはその自治体での自立を目指すというプランで、事業のベースとなる自治体が小川村だったのです。大沢さんは、友人から紹介してもらったNPOスタッフからプログラムの説明を聞き、即決断!2009年5月に、初めて小川村へと訪れました。
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