い~な 上伊那 2つのアルプスと天竜川からなる伊那谷の北部に位置し、雄大な自然に囲まれた上伊那地域。 この地域の自然、食、歴史や地域のがんばる人々など、私たち職員が見つけ、感じた上伊那の魅力と地域の活力を発信します。

い~な 上伊那

2つのアルプスと天竜川からなる伊那谷の北部に位置し、雄大な自然に囲まれた上伊那地域。 この地域の自然、食、歴史や地域のがんばる人々など、私たち職員が見つけ、感じた上伊那の魅力と地域の活力を発信します。

しあわせ信州 > 長野県魅力発信ブログ > い~な 上伊那 > 自然・山・花 > 石蕗の花に 【井月さんのこころ144】

石蕗の花に 【井月さんのこころ144】

 六道に霞たなびく頃【井月さんのこころ7】 

 また、横浜へ出て活躍した先人もいました。辰野町小野の小野宿問屋が面する国道153号線反対側に明治の横浜開港に貢献した小野光賢・光景の生家があることについては、遡回その63やその40に記しました。

 お花まつりの頃【井月さんのこころ63】

 冬至の頃【井月さんのこころ40】

 小野光賢・光景については、両小野地区振興会HP「小野光賢・光景記念館」 で、以下のとおり紹介されています。

 小野光賢は、文政元年(1818年)信州小野の郷に生まれる。
 安政6年(1859年)に横浜に出て、貿易を営み幕末維新の立役者勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟らとも親交を重ねた。
 横浜草創期に尽力し、町名主、横浜の副市長を務めた。町名主時代に記録した「横浜町会所日記」は当時の横浜町政を知る貴重な資料とされている。
 明治初年の飢饉の際にはお救小屋で発病した感染病の患者にも親しく見舞い・薬餌を与え歩いて市民の感謝の的となる。
 明治5年(1872年)時の県令陸奥宗光に退役願を提出。再起を促されるが職を辞し帰郷。この時その功績に対し金30両が与えられた。 帰郷した光賢は光賢庵で悠々自適の隠遁生活を送り。明治33年(1900年)82歳で生涯を閉じた。

 小野光景は弘化2年(1845年)小野光賢の長男とし小野の郷に生まれる。
 慶応2年国内の政治混乱に「男子時至れり」と横浜に出て父の仕事を手伝う。明治5年(1872年)に父の後を継ぎ、本町13か町の戸長、第1大区議長を手始めに種々の公職を手掛け、また明治15年(1882年)には福沢諭吉に諮って横浜商法学校(現市立横浜商業高校)を創立した。
 その他横浜商法会議所会頭、横浜正金銀行(現三菱東京UFJ銀行)頭取をつとめ、横浜の近代都市経営に大きな足跡を残し、明治43年には勅任の貴族院議員にも列せられた。
 また、郷里小野村に対しても小野駅の開設をはじめ、学校・図書館・病院建設に私財を投じて貢献した。
 大正8年(1919年)75歳にて波瀾万丈の生涯を閉じた。

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 開国によりシルクの輸出で地方も潤った時代のお話しです。

  石蕗の花明治は遠くなりにけり   青巒

    ステンドグラスに浮かぶ帆船   朴翆

 

 6日(日)小野地区社会体育協会主催の第25回綱引き大会が開催されました。今回は、北小野地区の小学生チームも参加して両小野小学校の体育館で熱戦が繰り広げられました。駒沢チームは、中学・小学校高学年が優勝、小学校低学年と一般が準優勝でした。

 

 

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 今週の結びは、愚良子先生のこの句です。

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