2014.08.13 [ 歴史・祭・暮らし ]
大久保番所(駒ヶ根市)
魅力発掘探検隊の一員として7月25日(金)炎天下の大久保橋(駒ケ根市と宮田村の境)を訪ねました。高遠藩領の南端に位置した大久保番所(木材の取締まりをした川の関所)があった場所ということで、天竜川に架かる鉄骨橋と旧吊橋主塔の姿とともに中洲の様子を見ました。
伊那峡から下流は川幅が狭くなり大久保ダムを過ぎるとやや広くなっています。旧吊橋主塔の周囲を囲む大きな岩塊は、暴れ天竜の氾濫の際にも崩れることなく周辺の浸食を防いだ、という話を地元の方からお聞きしたことがあります。左岸一帯の雰囲気は概ね昔の様子が残っていると想像します。
調べてみると、天竜川上流河川事務所の「語りつぐ天竜川」のサイトから貴重な研究資料が閲覧でき、松村義也著「資料が語る 天竜川大久保番所」にたどり着きました。
当初(文政8年(1825年))築造された大久保番所は中洲にあり、流れる丸太や筏はその東側、通船はその西側を通して川奉行の仕事をしたようですが、その作業ができる大きさの中洲は大久保ダムと大久保橋の中間にある中洲のことかな?と想像しました。しかしその番所は安政2年(1855年)の氾濫で流出したため、大久保橋近くの高台に翌年再建されたようです。割烹旅館しぶき荘様のホームページには「江戸時代のはじめから明治四年までの間、高遠藩の材木役大久保番所が置かれていたところ」と紹介されています。
また「代々川奉行を勤めた中村家」との記録もあり、私の知る大久保の中村さんは実は由緒ある系譜の方だったのかと驚きました。
続いて、大久保橋付近での渡し舟がどんなものだったのか調べようとしたとき、10数年前の講演会で(故)柿木憲二先生(元上伊那郷土研究会会長)から伊那谷の絵図を題材に街道や渡し舟などのお話をいただいたことを思い出しました。絵図は飯田市美術博物館に展示されている「正保の国絵図」ですが、確認したところ残念ながら渡場の印しはありませんでした。残念!(国立公文書館デジタルアーカイブでも閲覧できます。)それでも、渡し舟があったようですので、役人や武士が通らないのんびりした渡場だったのでしょうか?
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