2013.01.09 [ 歴史・祭・暮らし ]
歴史の街「高遠」探訪 ~武田家と保科家が並ぶ建福寺~
上伊那地域魅力発掘探検隊のS田です
伊那市高遠町を散策したので紹介します。
高遠と言えば、高遠城を中心とした歴史の街。今回紹介するのは、「大寶山建福寺」です。
この寺は、鎌倉建長寺を開いた「蘭渓道隆大覚禅師」が建長5年(1253)に行脚した時、霊異に触れて開山したという古刹(建福寺発祥の地である「独鈷の池」は本堂の裏)。南北朝時代には隆盛しましたがその後衰退し、武田信玄の帰依によって臨済宗妙心寺派の寺として中興されました。歴代高遠城主の厚い信仰を受け、武田、織田、保科家の古文書が多く残る保科家の菩提寺です。ここには、諏訪御料人のお墓と、保科正直、正光の父子のお墓があります。
さて、入口の急な石段の前に立つと、両側に高遠石工では名工と呼ばれる守屋貞治作の三十三観音や六地蔵が目に飛び込みます。石段を登って門をくぐると本堂の屋根には、保科家の「並び九曜」と徳川家の「葵」の家紋が輝いています。目を落として正面に向かうと、左手に守屋貞治作の傑作「願王地蔵尊」があり、さらに本堂の左側へ回ると西隣に、諏訪御料人、保科正直、保科正光のお墓が並んで建っています。
右端は「諏訪御料人」のお墓です。ご存知のとおり武田勝頼の生母で、武田信玄に天文11年(1542)に滅ぼされた諏訪頼重の娘です。実名が不詳のために諏訪御料人と呼ばれていますが、井上靖著「風林火山」には由布姫、新田次郎著「武田信玄」には湖衣姫とも書かれています。
諏訪御料人のお墓
諏訪御料人は、美人といわれ若くして武田信玄の側室となり、天文15年(1546)に「諏訪四郎勝頼(武田勝頼)」を生みますが、病の身となって勝頼10歳の弘治元年(1555)に20代半ばで没しています。
武田勝頼は、永禄5年(1562)から伊那郡の代官として高遠城の城主で9年間居住しており、諏訪に葬られていた母をこの寺に改葬したと言われています。
今の建福寺は慶長以前には乾福寺と呼ばれており、諏訪御料人の法名も「乾福寺殿梅嚴妙香大禅定尼」となっています。残念ながら、女性のお墓としては武骨で、少し似合わないような気がしますが。
諏訪御料人のお墓の左側で中央は、慶長6年(1601)に亡くなった保科正直で、法名は「建福寺殿天関透公大居士」。左端は、寛永8年(1631)に亡くなった保科正光で、法名は「大宝寺殿信嚴道義大居士」です。
保科正直のお墓
「保科正直」は、戦国時代の武将で、甲斐武田家の家臣から、北条家に帰属、その後信濃国衆として徳川家に転じ、徳川家康に仕えました。家康の関東移封に伴って下総国多胡城主となり、慶長6年(1601)に高遠城で亡くなりました。その長男は保科正光です。
保科正光のお墓
「保科正光」は、武田勝頼が高遠城主のころに高遠で生まれています。父の正直とともに戦国時代を生き抜き、大坂冬の陣では淀城の守備、夏の陣では毛利隊との戦いに苦戦をしますが戦功をあげた武将です。下総国多胡藩主から高遠藩を立藩して初代高遠藩主となっています。元和3年(1617)に将軍徳川秀忠の庶子を預けられ養子とし、これが高遠藩主から会津若松藩主となり会津松平家の藩祖となった有名な「保科正之」です。伊那市では保科正之の大河ドラマ化の運動をしています。皆さんも応援してください。
参考までに、矢澤電影著「建福寺と諏訪御料人、保科氏墓考察」(高遠町図書館)によると、このお墓は元禄3庚年9月(1690)に会津城主保科肥後守正信の命によって同時に再建されたようです。さらに、「保科正信」を調べてみますと、歴史上では松平正容(まつだいらまさかた)と呼ばれ、会津松平家第3代の会津藩主です。保科正之の六男として生まれ、兄の第2代正経の養子となって天和元年(1681)に家督相続をしています。元禄9年(1696)に松平姓と葵紋所の永代使用を許され、名実ともに徳川一門として遇された最初の人ですが、遡って保科正之を初代の会津松平家としたので3代目になります。
近くにあった如意輪観音です。やさしさは、諏訪御料人の姿を感じます。
再び本堂の前に戻ると、左手の鐘楼の向こうに高遠城址と仙丈ヶ岳。門の向こうには、仁科五郎盛信やその家来が祀られている「一郎山」から「五郎山」までの一連の尾根を望むことができました。
五郎山を望む
これも、武田勝頼が結びつけている「武田家」と「保科家」の縁なのでしょうか。やはり、高遠は歴史の街ですね。
このほか建福寺の守屋貞治の石仏については、先にご紹介した記事「上伊那の宝 守屋貞治の石仏」をご覧ください。
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