い~な 上伊那 2つのアルプスと天竜川からなる伊那谷の北部に位置し、雄大な自然に囲まれた上伊那地域。 この地域の自然、食、歴史や地域のがんばる人々など、私たち職員が見つけ、感じた上伊那の魅力と地域の活力を発信します。

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高遠の戦国絵巻 ~仁科五郎盛信と五郎山~

こんにちは。魅力発掘探検隊の中年Mです。

                     信盛
♪ あさひ~将軍 義仲も~   仁科の五郎盛信も~ ♪

と、我らが県歌「信濃の国」の5番から始まりました今回は「仁科五郎盛信」のお墓があるという「五郎山」(伊那市高遠)をご紹介します。

 ※「信濃の国」の歌詞の記載に誤りがありましたことをお詫びします。
  詳しくは、
こちらをご覧ください。


「仁科五郎盛信」とは、武田信玄の五男で、武田討伐のために伊那谷へ攻めてきた織田信忠(信長の長男)の軍勢と高遠城で戦った武将です。

時は戦国、天正10年(1582年)のこと・・・


織田信忠が武田氏討伐のため、大軍を率いて伊那谷へ進撃して来ました。
しかし、武田方の諸将は恐れをなし、次々と投降していきます。

そんな中、信玄の跡を継いだ兄・武田勝頼の命により、仁科五郎盛信だけがただ一人踏みとどまり、高遠城でこれを迎え撃ちます。
3月2日の早朝から敵の総攻撃が始まりました。

五郎盛信は、高遠城を守って奮戦するものの、ついに落城し、腹を真一文字に掻き切って壮絶な最期を遂げたそうです。

その後、五郎盛信の遺体は、勝間村の農民たちが探し出して持ちかえり、火葬にして山頂に葬られました。

以来、この山を「五郎山」と呼ぶようになったそうです。

「五郎山」の山頂には、明治14年(1881年)に勝間村が建立した祠、昭和10年に高遠出身の医学博士が建立した石碑があります。

衰退する武田家の中で、ただ一人勇敢に戦い抜いた仁科五郎盛信の姿は、後の時代の人々にまで感銘を与え続けてきたようです。

ちなみに、織田軍の高遠攻めから9日後、武田勝頼が山梨の天目山で自刃して武田氏は滅亡します。しかし、武田氏を討ち滅ぼした織田信長・信忠の親子は、この年の6月2日に起こった本能寺の変により京都で討ち取られてしまいました。
そんな激動の歴史の中の一場面が、上伊那地域でも繰り広げられていたのでした。

高遠攻めがあった旧暦の3月2日は、桜が盛りと咲く時期だったとのこと。
まだまだ寒い日が続きますが、桜で賑わう前の高遠でそんな歴史に想いを馳せてみるのはいかがでしょうか。

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