い~な 上伊那 2つのアルプスと天竜川からなる伊那谷の北部に位置し、雄大な自然に囲まれた上伊那地域。 この地域の自然、食、歴史や地域のがんばる人々など、私たち職員が見つけ、感じた上伊那の魅力と地域の活力を発信します。

い~な 上伊那

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落ち栗のように【井月さんのこころ30】



井月さんが俳諧三部作の最初『越後獅子』を編んだのは、42歳のとき。
文久三年(1863年)五月、高遠藩家老の岡村菊叟(鶯老人)さんを訪ねて序文を書いてもらい「越後獅子」と名付けていただいたようです。
岡村忠香(ただはる) 寛政12年(1800)~明治18年(1885)
号:菊叟、鶯老  尊王家、国学者、高遠藩家老(天保11年(1840)~)

文久三年のさつき、行脚(あんぎゃ)井月、わが柴門を敲(たたき)て一小冊をとうて、序文を乞ふ。わぬしはいづこよりぞと問へば、こし(越)の長岡の産なりと答ふ。おのれまだ見ぬあたりなれば、わけてとひ聞(きく)べきふしともなし。・・・・(中略)・・・・・これもかの角兵衛がたぐひならんかと、此小冊に越後獅子とは題号しぬ。       鶯老人
その巻末句は、
ほとゝぎす旅なれ衣脱(ぬぐ)日かな  井月

そして、翌年の元治元年(1864年)九月刊、俳諧三部作の二作目『家づと集』の序文は、滞在先の善光寺宝勝院住職の梅塘さんに書いてもらっています。(「家づと」とは家へ持ち帰るお土産のこと。)
捨(すてる)べきものは弓矢なりけり、といふこゝろに感じてや越の井月、入道の姿となり前年、我(わが)草庵を敲(たたき)てより此(この)かた・・・・・(中略)・・・・・・・秋も良(やや)碪(きぬた)の音の遠近(おちこち)に澄(すみ)わたるころ、緒家の玉葉を拾ひ集め、梓にものして、古郷へ錦を餝(かざ)るの家づとにすゝむる事とはなりぬ。
元治甲子 菊月           梅塘

この中に、次の連句があります。
来る年も巣は爰(ここ)ぞかし行乙鳥(つばめ)  梅塘
花にこころの残るそば畑   井月

そして、巻末句は「しほらしくもいとなつかし」の詞書に続けて
ちりそめてから盛りなりはぎの花  井月
写真: つばめ

 『越後獅子』を刊行した後、故郷に帰り母親の喪を果たし、『家づと集』を編んだ頃までは、越後にしばしば帰っていたようです。
しかし、明治維新の動乱のなかで、高遠藩は官軍、長岡藩は朝敵となり、武士(弓矢)を捨てた井月さん、母親も亡くなって長岡には待つ人もいなくなり、次第に帰り辛くなってしまったようですね。
明治五年「壬申戸籍」が施行されると、戸籍を持たなければならなくなって、周囲は井月さんを越後に帰そうとして何度も送別の宴(明治5年 東伊那中村家 参加者113名(遡回その3)など)まで催したようでありますが、「国へ帰ると云て帰らざること三度」と、その度に善光寺辺りまで行って引き返してきてしまったようです。
そして伊那に留まることおよそ30年、ついに「落ち栗」となって朽ち果てようと諦念し、名残りの句につながるのですね。

さて、燕はとうの昔に南に帰りました。帰り後れれば冬の寒さで凍えてしまいます。
そして、もうすぐ北から白鳥や鴨の群れが渡ってきます。

本格的な冬の渡り鳥の飛来を前に、10月3日(木)上伊那高病原性鳥インフルエンザ防疫訓練を実施しました。
本県において、これまで高病原性鳥インフルエンザの発生はありませんが、平成23年度に隣接の愛知県で発生した際には、県に対策本部が設置されたことがありました。

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