2016.02.06 [ 歴史・祭・暮らし ]
不苦者迂智(ふくはうち)に 【井月さんのこころ152】
その後も例によって「年始馳走」、「年酒」を20軒くらい重ねた後の小正月前に、何とまあ年の暮れに亭主から置いてきぼりにされ「こり性もなくて矢立の寒さ哉 井月」と矢立を忘れた、あの赤木の秋月亭へ、懲りもせずに再訪しているのであります。
十二日
快晴。今朝林孫市方へ年始馳走、酩丁、泊。
十三日
餅搗。 午後出立。年玉拾銭御恵ミ。大久保渡◇新家。宮田にて亀のやに逢、拾銭御恵。銭湯に浴し松屋へ御酒十銭さし置。夜に入秋月亭へ投じ泊る。尤年始述不興。
十四日
村天寒し。今朝もち搗粗末。下小出店にて昼酒食。坂下湯入二銭ミカン揚二枚一銭。池上氏へみやげ。越年
正月十五日
晴。寒。未刻退去、川下り大島通、末広原梅関亭へ黄昏着。雪野難渋。年始馳走、酒肴佳、そば。
季節は丁度今時分、その前後を読むと、………
十二日(新暦2月8日)は東伊那の林孫市宅で朝から酒を御馳走になり酩酊して泊り、翌十三日(新暦2月9日)は、小正月を迎える餅搗きに付き合って、午後出立し、天竜川を渡って宮田へ、常宿である駒ヶ根の松屋へは酒代だけ置いて泊らず、夜まで歩いて伊那市西春近赤木の秋月亭へ、「尤年始述不興(もっとも、ねんしのふきょうをのべる)。」ということのために再訪したようであり、翌朝も「もち搗粗末。」とけなしています。
十四日(新暦2月10日)は坂下で銭湯に入り、現在の伊那市境の池上氏へ土産持参で泊り、年越しして、小正月の十五日(新暦2月11日)は「雪野難渋」して現在の伊那市美篶末広太田窪の塩原梅関宅へ辿り着いたようです。
塩原梅関宅は、井月さんが終焉を迎えた家であり、井月さんが塩原梅関(折治)の弟(梅関の次女「すえ」の養父)「清助」の名前で入籍したのは、明治18年1月とのこと。
この明治十七年小正月前後の足取りを追えば、井月さんの健脚ぶりも窺えるわけですが、相当に打たれ強かった様子も読み取れます。まさに「不苦者迂智(ふくはうち):苦しまざる者は智に迂(うと)く」甚寒雪野難渋の苦労を重ねた井月さん、時に63歳。
木々の年輪も冬の寒さがあるからこそ刻まれるのです。そして、年輪があるからこそ強度が上がり、良質な木材となるのです。「智」を獲得する人の成長もこれに似ています。
節分を過ぎて寒さもあと一息。今年の旧暦元旦は、8日(月)、小正月(旧暦一月十五日)は、22日(月)になります。
餅花や空を気にして小正月 青巒
春を待たるる睦月満月 朴翆
今週の結びは、愚良子先生のこの句です。
「春日愚良子句集」から
寒気団ゐ直つてゐる重石かな 愚良子
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