2016.02.06 [ 歴史・祭・暮らし ]
不苦者迂智(ふくはうち)に 【井月さんのこころ152】
この日記を読むと、寒い季節の井月さんの難渋ぶりがわかります。
明治十七年申年(註 旧暦十六年)
1月22日 旧十二月廿四日
厳寒。去る十二月廿二日赤木秋月投宿。隣家風呂に行。此夜あるじ遊びに出不帰。
廿三日
晴 寒。 今朝四時過出立、弁当無にて福島里井亭へ這入、下駄緒を直し下寺喜撰楼へ夕刻投じ泊る。御仕きせ一本御恵。
廿四日
晴、寒風烈一等甚寒貞婦。赤木秋月亭に矢立を忘て
こり性もなくて矢立の寒さ哉
焚火してもてなす雪の宿り哉
粟粥でつなぐ命や雪の旅
心有て一酒を饗応、きび餅の興
羽二重の袂みやげや冨喜の薹
(以下 7首 略)
改めて、遡回その46で紹介した句の評釈について、井上井月研究者である竹入弘元氏の「井月の魅力 その俳句鑑賞」(ほおずき書籍)から引用させていただくと・・・、
焚火してもてなす雪の宿り哉 井月
旧暦明治十六年十二月下旬、昨夜の家で、主人は外出、置き去りにされ、朝四時に抜け出して手良まで十余キロの道を辿ってきた。
井月は、多く語らないが、井月の昨夜来の様子は、厳寒に想像を絶するものだった。それだけに、この家にたどり着いて安堵、焚火に手をかざし、「お仕きせ一本お恵」に預かる。
(焚火・冬)
粟粥でつなぐ命や雪の旅 井月
雪道を辿り着いた知人の家。粟粥を装ってもらって蘇生の思い。長年井月を迎え入れてきた伊那の地も、老いた井月に冷淡、加えて日本の時流は遊俳には住みにくい。近代日本は君主国、富国強兵策に突進。明治十六年ころは欽定憲法制定前夜で、民衆の解放は幻影に終わる。追いつめられた晩年の井月。
全集の「雪の宿」を「雪の旅」に改める。日記の原文を見た上で。
(雪・冬)
この明治十六年(旧暦)大晦日(新暦1月27日)は、廿三日に続いて再び常宿であった手良の喜撰楼で越年しています。
十二月大晦日
雪天。喜撰楼越年。
世のちりを降隠しけり今朝の雪
木々の雪花とながめて年暮ぬ
雪が来て些(やや)春めきし野面かな
十七年申元旦
初日春色。
已に雪は消んとしたり初日影
初鶏や秦の掟を思はるる
(以下 略)
このブログへの取材依頼や情報提供、ご意見・ご要望はこちら
上伊那地域振興局 総務管理課
TEL:0265-76-6800
FAX:0265-76-6804