2015.08.17 [ 歴史・祭・暮らし ]
高遠藩ってどこまで?~「分杭」を訪ねる~
こんにちは! 魅力発掘探検隊のJです。
今回訪ねたのは、江戸時代の高遠藩の標柱「分杭(ぶんぐい)」です。
江戸時代、上伊那には幕府や旗本の領地などと、高遠藩の領地がありました。このうち、高遠藩が治めていたのは現在の伊那市高遠町の高遠城を中心に、伊那市のほとんどの地域や宮田村、駒ヶ根市の一部などでしたが、遠くは辰野町や塩尻市洗馬まで及んでいて、領地も入り組んでいたのです。この高遠藩の領地の境界を示すのが「分杭」といわれる標柱です。
分杭には「従是北(東・南)高遠領」と記されていて、高遠藩の領地の境界を知ることができます。
江戸初期の高遠藩は保科氏に続き鳥居氏が治めていましたが、元禄の時期に鳥居氏が能登に転封されると、内藤氏が移ってくるまでの間、一時幕府領になりました。元禄3年(1690年)、幕府は高遠領内の厳格な検地を行い(いわゆる元禄検地)、財政の安定化を図りました。この検地の際に、高遠藩の領内に100本あまりの分杭が建てられました。
当初は木製でしたが、その後内藤氏が石柱に建て替える際に、銘文に領主名「内藤駿河守領分」と記されていたのを「高遠領」と変えたため、幕府の許可が出ず、多くの分杭は放置されるなどして捨てられてしまいました。しかし、いくつかは現存していたり、移設されたりしています。
始めに紹介するのは、伊那北駅近くの伊那北地域活性化センター(きたっせ)の敷地内にあるものです。これは別の場所にあったもの(市営火葬場近くの鳥居原にあったという説が濃厚なようです)が、廃藩置県で効力を失うと、阿弥陀寺(現山寺区上村いきいき交流施設「居久根館」)に移されたもののようです。その後、平成16年(2004年)に「きたっせ」が建設された際に現在地に再建されました。
<きたっせ駐車場内にあります>
次に訪ねたのは、伊那市小沢の国道361号(権兵衛街道)沿いのものです。この分杭は、国道を市街地から権兵衛トンネル方面に上っていき、中央自動車道の跨道橋を渡って数百メートルの脇道の三叉路のところにあるので、目立っています。伊那市と南箕輪村の境界上にあるので、昔からここが境界だったのでしょうか。
伊那市指定史跡にも登録されています。
<権兵衛街道沿い>
三つ目に紹介するのは、宮田村にある分杭です。元禄検地の際に、当時の宮田村と中越村(双方とも現在の宮田村)の太田切川北岸に4本の標柱が建てられましたが、文政10年(1827年)に伊那街道沿いの2本を当初の木製から石柱に建て替えようとしたところ、前述のとおり幕府に許可されず、現地に埋められてしまったようです。
明治維新後も幸い失われることはなく、その後掘り出され、現在は国道153号沿いの太田切橋北側と津島神社の境内に復元されています。どちらも宮田村指定文化財となっています。
<太田切橋北側の分杭>
<津島神社境内の分杭> <津島神社の祇園祭は村指定無形文化財にもなっています>
最後に紹介するのは、伊那市と大鹿村の境にある国道152号沿い「分杭峠」の分杭です。その名のとおり、峠の名称の由来にもなっています。この道は火防の神として知られる静岡県の秋葉神社に参詣する人々が通った秋葉街道としても知られていますが、近年は、峠が「ゼロ磁場」「気場」としてテレビで紹介され、パワースポットしても注目されています。
山深いところなので、市街地からは遠いですが、パワースポットと合わせて訪ねてみてはいかがでしょうか。
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