2014.06.11 [ 職員のみつけた情報コーナー ]
上小ふしぎ発見!?(その21) 上田に炭鉱?
お久しぶりでございます。ミステリーハンター見習いのKです。
今年1月、とあるイベントの打上げでご一緒した方から、「炭鉱は北海道や九州のものだとみんな思っているけれど、昭和20年代までは上田にも小牧山などに炭鉱があって、今でも創造館近くには炭鉱の安全を祈願した神社が残っている。」というお話をお聞きしました。
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そんなことを聞いては行かずにおられません。今回は、上田の炭鉱のご紹介です。
お話によると、創造館に案内図があるというので、まずは上田創造館に向かいました。建物の周りで案内図を探しましたが見つからないので、中に入ると入口右側の壁にありました。
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熊人さんまで行くと散歩道の案内があります。案内に従って散歩道を登っていくと、ヤマブキやハナモモが歓迎してくれます。(訪れたのは4月末です。)もう少し歩を進めると、スミレの群生のお出迎えです。木々の芽吹きはまだですが、鳥も盛んに鳴いてますし、シャクナゲの花も見られます。
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散歩道の沿道の木々や花、鳥の声を楽しみながらしばらく行くと広場に到着します。入口付近の案内板を見ると金城(きんじょう)炭鉱跡とあります。この炭鉱は昭和10年代初めから昭和20年代半ばまで操業していたところで、採掘した石炭はこの散歩道をトラックで別所線の上田原駅まで運ばれ、貨車で京浜方面に出荷されていたとのことです。東屋の屋根裏には冒頭の写真が掲示されており、往時に思いを馳せることができます。
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ここの石炭は「亜炭」といわれるものですが、亜炭は水分が多く発熱量も低い上に粉末になりやすいのですが、炭層が浅いところにあり資材がわずかで済み、その上、石炭のように引火しやすいガスがなく坑内爆発の危険がないことから石炭が不足した戦時下では貴重な燃料源となっていたようです。
案内板に示された辺りを、作業道を登ったりして探しましたが、炭鉱跡を特定することはできませんでした。なお、小牧山山系にはここを含め5つの炭鉱があったとのことで、地元では小牧山を「炭鉱山」と呼んでいたそうです。
炭鉱といえば、ボタ山を連想します。1月にお話を伺った方も近くにボタ山があるとおっしゃっていました。上田市誌にも「坑口の跡や坑道から掘り出された土砂の山が当時の面影をとどめている」と記されています。
この周辺では見つけることができなかったので、ググってみたら上田市マルチメディア情報センターが制作した映像「新丸窓電車で行く別所線沿線の旅」がヒットしたので見てみました。すると城下駅から南へ1kmの小牧山麓にあると紹介されています。ボタ山というと九州などにある大きなものを思い浮かべますが、映像を見る限り、こちらのは山ではなく田畑の畔のように見えます。この映像は、マルチメディア情報センターのホームページや、YouTubeの同センターの専用チャンネルから見ることができます。興味のある方はご覧ください。
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さて、祠ですが、炭鉱神社と書かれたものはありませんでしたが、登り口にある説明板によると炭鉱の無事故を祈願したものとのこと。上記の映像では炭鉱で働いていた方の後方に祠が写っている写真が出てきますし、木が覆い茂る中に祠が「炭鉱神社」と紹介されています。
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ところで、この場所は炭鉱が閉鎖されてから何年間か警察のピストルの射撃訓練場所として使われていたようですが、これがわかるようなものは見つけられませんでした。
また、さらに時代を遡ると、天文17年(1548年)武田信玄が村上義清と激突した「上田原の戦い」で、須々貴城(天白城)付近に陣をしいた村上義清を討つために武田信玄が陣を構えたところでもあるようで、この辺りには物見山、合図山、兵糧山、御陣ヶ原、味方原など布陣にまつわる地名が今も残されています。
帰途、散歩道に炭のようなものがいくつも散らばっていたので、山側の法面が崩れたところをのぞくと何やら黒く光る石が!こぼれ落ちていた石を触るとボロボロと壊れやすいのですが、小学生の時お世話になった石炭のような光沢があります。(歳がバレバレ)亜炭を見ることができたことで、炭鉱跡を特定できなかった留飲を少し下げて帰宅しました。
さて、広場までは登り口から500mほど、皆さんも熊人さんまで行かれたら足を延ばされてはいかがですか。広場下には3台ほどの駐車スペースがありますが、周りの木々や鳥の鳴き声などを楽しみながらゆっくり歩くことをお勧めします。
金城炭鉱跡がある倉升「さと山広場」はこちら↓↓↓
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