2019.04.01 [ 松本建設事務所 ]
橋に込められた想い
みなさんこんにちは、松本建設事務所のTです。
皆さんが普段何気なく通る道や橋にも数々の歴史や先人たちの想いがあるのをご存知でしょうか。
国道158号新渕橋のそばには「頌徳の碑」という先人たちの功績を讃えた石碑があります。
その碑に刻まれた「碑を建つる記」には橋を拓いた先人たちの努力が垣間見えました。
今回はこの「頌徳の碑」についてご紹介したいと思います。
(碑を建つる記の一部を意訳しております。間違いなどはご了承ください…)
*** 以下「碑を建つる記」意訳 ***
「碑を建つる記」
筑摩と安曇の人々は、川の水が増えた際雑炊橋を通る交通ルートのみに頼っていました。
そして長らくの間、地勢が険しいところを避けた安全な橋が架けられることもありませんでした。
松本藩はこの交通状況に対応してくれなかったためしっかりとした橋は架けられず、
仮橋を架けて渇水期である冬にしか利用できませんでした。
冬の間は飛騨街道の往来に使われていましたが、春になると水が増えるため対岸の飛騨道を使っていました。
このような道の使い方が毎年繰り返され、この状況は明治初期まで続いていきました。
この時の交通網の様子が天正9年に起きた武田軍と木曽郡軍の合戦軍記に記されています。
思えば遠い祖先から人々は自然の威力に望む執念と戦っていたのです。
★しかしついに明治2年に当時の発起人たちによって永い間望んでいた本橋がかけられるようになったのです。
時は明治維新真っ只中、「多くの人々の力が必要だ!」と思った人々は
一家の家財を橋の建設に費やしたり、橋の完成を望む同志を求めて奔走したりして
寄付金のみで本橋を完成させました。そしてこの橋が永遠に続くように維持し続けていました。
そして明治13年、長野県の管理する架橋になったのです。
この橋の最初の名前は「竜渕橋」、のちに「新渕橋」に改名されました。
それ以来約100年、この橋の歴史を知る人も少なくなり、先人の功業も空しく消え去ろうとしています。
道が文化や経済の動脈である現代の人々は、郷土の今日を築く糸口を拓いてくれた先覚者たちに対して恩を忘れてはならないのです。
今、この思いを感じた同志が集まり、この記念碑を建て先覚の功業を讃えます。
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