2014.09.06 [ 自然・山・花 ]
稔り間近の秋に 【井月さんのこころ76】
印象に残ったパネリストの皆さんのコメントです。
石寒太さん(炎環主宰、俳人)
西行、芭蕉、一茶などは、求道精神を持った「漂泊」の俳人
惟然、井月、山頭火などは、自由自在に生を全うした「放浪」の俳人
芭蕉を看取った晩年の弟子である惟然は、芭蕉亡きあと「風羅念仏」を唱えながら全国を巡り、晩年は口語俳句に走り異端視されたが、井月を間に挟んで、後の山頭火や放哉ら自由律俳人に大きな影響を与えた。
今泉恂之助さん(双牛舎代表)
井月の「まし水」や俳諧三部集の一つ「余波(なごり)の水くき」に集められている伊那谷の俳句のレベルは高く、井月の指導によって秀句、佳句が作られていたのだと思う。指導に情熱を持っていた井月は目的を持って伊那の各地を歩いていたはずである。
俳諧三部集の「越後獅子」と「家づと集」も、江戸や京都などを歩いて、各地の著名な俳人の句を集めている。その実力からして、井月の壮年時代は、態度も見かけも立派な人物だったに違いない。
沢木美子さん(弁慶庵元館長)
井月が憧れた放浪俳人・惟然は、師である芭蕉の句に節と振りを付けて瓢箪を叩いて「風羅念仏踊り」をしながら芭蕉追慕の放浪の旅に明け暮れた。惟然と井月は、その性格や書の上手さなどが共通する頭脳明晰でユーモアもある世捨て韜晦の俳人である。
宮原達明さん(井月顕彰会理事)
井月の晩年に書かれた日記は、明治16年12月から18年4月までの間の、実際には360日余の記録が残されている。泊まった家は97軒、従って平均3泊強で、意外にも野宿をした記事はない。「乞食井月」と呼ばれるが、日記の中で「御飯無心」「茶漬無心」は2回、それも金鳳寺と聖徳寺でのみ。農民に寄り添い、伊那の人々に支えられ続けた井月を窺い知れる。
北村皆雄さんが司会を務め、伊藤伊那男さんをコメンテーターに井月さんの放浪の謎に迫る2時間余りの充実したシンポジウムでした。
このほか、津軽三味線奏者の二代目高橋竹山さんによる「放浪と東北を唄う」では、惟然の風羅念仏が再現され、翌30日(土)に開催された「第23回信州伊那井月俳句大会」には全国から6,270句の投句があり、併せて石寒太さんによる「漂泊の系譜を継ぐもの~惟然・井月・山頭火~」の講演会などが開催されました。
井月俳句大賞は、高野清風さん(兵庫県川西市)が受章されました。
井月のことにもふれて花便り 清風
ところで、前回その75の「馬の尾筒」の句の竹入弘元先生の評釈の中に「下島五山」さんが登場しました。
秋を感じる頃【井月さんのこころ75】
https://blog.nagano-ken.jp/kamiina/life/6093.html
下島五山さんは、本名を富士といい、井月さんを世に紹介した下島空谷(勲)さんの実弟で、井月さんの句を最初に集めるのに尽力された中沢村(現:駒ヶ根市中沢)の方です。
井月さんまつりのパネリストでも登場された「井月の日記―日記と逸話から井月の実像を探る―」の著者である宮原達明さん(井月顕彰会理事)によれば、「井月さんが残した晩年の日記は3冊(甲本、乙本、丙本)に分かれて発見されており、最後に見つかった丙本(新本)は「五山本」とも呼ばれ、松本の古本屋にあったものを高津才次郎さんが見つけて写し、原本は下島五山さんが購入して所有したもの」とのことです。
また、伊那毎日新聞社から昭和49年に発刊された『漂泊の俳人井月全集』改訂版の巻末には次のようにあります。
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