い~な 上伊那 2つのアルプスと天竜川からなる伊那谷の北部に位置し、雄大な自然に囲まれた上伊那地域。 この地域の自然、食、歴史や地域のがんばる人々など、私たち職員が見つけ、感じた上伊那の魅力と地域の活力を発信します。

い~な 上伊那

2つのアルプスと天竜川からなる伊那谷の北部に位置し、雄大な自然に囲まれた上伊那地域。 この地域の自然、食、歴史や地域のがんばる人々など、私たち職員が見つけ、感じた上伊那の魅力と地域の活力を発信します。

戦国時代の史跡「蓮台場」2

残暑はまだ続くのでしょうか?魅力発掘探検隊のSです。来年はNHKの大河で「真田丸」が始まりますが、戦国時代は動乱期であり長野県各地で武田信玄や織田信長ゆかりの地もありますので、その地を振り返り長野県の観光も盛り上がればよいなと思うところです。そこで、伊那市狐島の蓮(れん)台場を取り上げます。住宅地図には「史跡北山禅師の墓」と記載されており、二つのいわれがある地です。このブログに載るのは2度めで、伊那市長谷にある八人塚も関連する戦国時代の史跡です。
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戦国時代武田信玄の侵略に対し、上伊那地域の豪族は城などを築いて抵抗したものの、戦上手の信玄に落とされ、南信濃の諸将はほぼ武田氏に従いました。
北信濃では上杉謙信と信玄が対戦しているのに乗じ、黒河内政信(伊那市長谷艮城)、溝口正慶(伊那市長谷溝口城)、松島信久(箕輪町松島城)、伊那部重親(伊那市春日城)、殿島重国(伊那市東春近殿島城)、宮田親房(宮田村北の城)、小田切正則(駒ケ根市赤穂小田切城)、上穂重清(駒ケ根市上穂城)など8人の上伊那の城主等は協力して、信玄の娘の嫁ぎ先である木曽氏を攻撃しました。箕輪町から駒ケ根の城主までオール上伊那といってよいと思います。
しかし、北信濃から取って返した信玄軍に捕らえられ、1556年伊那市狐島のこの蓮台場で処刑にされました。黒河内の人々はこの8人の首を長谷の艮(うしとら)城の東に葬りました。これが、八人塚です。蓮台場は胴塚、八人塚は首塚となります。

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また、このブログで何回も取り上げられていますが、26年後の1582年3月には信濃の国5番で歌われている仁科五郎盛信(信盛)が織田信長の武田攻めに抵抗して、奮戦の果て自害しました。そして、盛信と武田勝頼父子の首は信長の命により京都に晒されたとのことです。そのわずか3か月後の6月には本能寺の変が起きています。
これらの事件は非常に血なまぐさいものですが、時代は鎌倉~室町の中世から武田信玄、織田信長の戦国時代を経て、上伊那各地域の豪族が絶え、近世江戸時代の飯田城主、飯島陣屋(天領)と高遠藩統治の時代への分岐点となった重要な事件だったと思います。
上伊那はずっと平和で穏やかな地域で、歴史的な大きな出来事はなかったと思っていましたが、戦国乱世の洗礼をそれなりに受けていたのです。戦国時代の城の跡をインターネットで検索するといろいろな情報が得られ、この地域の史跡、春日城址、殿島城址、艮城、溝口城、福与城などの城跡を回ってみようかと思います。

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