2014.01.30 [ 佐久のいい景色 ]
歴史的農業施設シリーズ8~追分の温水路を訪ねて(その1)~
佐久の寒さに閉口している農地整備課の「SKT46」です。
マスクをして通勤していると、吐く息でメガネのレンズがくもって、時々薄い氷の膜になってしまいます。そんな時に見つけた景色です。
寒雀と浅間山
さて今回は、歴史的農業施設シリーズ5で紹介した「御影用水」の下堰にある温水路を紹介します。軽井沢町追分の別荘地内にあります。
最近は、地球温暖化が進んでいるといわれ、世界的には干ばつや洪水によって農業生産への影響も懸念されています。
しかし、昭和の初期における長野県内各地では、標高が高く水温が低いことから、主食である米の生産量を上げるために様々な努力をしていました。1932年ころに軽井沢町の荻原豊次氏が考案して長野県農業試験場が改良した保温折衷苗代(注1)の育苗法の普及や、水温を上げる温水ため池として佐久穂町の八千穂レイクあるいは戸隠の鏡池等多くのため池が築造されています。その結果、長野県の平成25年産米は、単収(632㎏/反)、1等米比率(96.4%)ともに日本一になっています。
このほかにも、県内には水温を上げる施設として温水路が3箇所あります。その最大規模の施設が軽井沢町にある「御影用水の温水路」です。
別荘と森林に囲まれた温水路
まずは御影用水の歴史を説明しましょう。
御影用水は、浅間山麓にある千ヶ滝の下流と白糸の滝の下流湯川から取水し、それぞれ上堰と下堰と呼ばれる2本の水路で、軽井沢町内を流れ、御代田町境付近で合流します。そして、その直下流にある射流分水工構造(注2)の岩村田分水で、御影陣屋跡があり道祖神祭で有名な小諸市御影新田に流れる御影用水と、長野新幹線佐久平駅付近の仙禄湖まで流れる岩村田用水に再び分かれて、水田488㏊をかんがいしている延長約21㎞の水路です。
この用水の原点は、364年前の慶安3年(1650年)まで遡ります。当時、武士であった柏木小右衛門翁は、農民として生きる決心をして御影の新田開発に着手します。4代目小諸藩主で領主でもあった藤原朝臣青山因幡守宗俊から用水開削の権限を受け、全財産を投げ打ち3年をかけて用水を引き、御影新田を開きました。ちょうど中山道に沿ったように沓掛宿から追分宿、小田井宿、岩村田宿、塩名田宿あたりまで流れる水路です。
この用水は、浅間山麓の火山地質帯を流れるので、漏水が多く水路管理に非常に苦労したようです。伝説として残されている話に、「綿埋(わとうずみ)」があります。真綿と粘土を重ねて埋め込み漏水を防いだという話です。
また、「肘折沢(ひじおりさわ)」の水は上に登って流れていく」という話があります。読んで字のごとくに、肘が折れて鋭角になっている沢で、地形的に用水を沢奥へ巻きまわすために、そのように感じる不思議なところがあります。
当時の水路開削した先人達の苦労と水に対する強い思いが伝わってきます。
この頃の小諸藩では、御影新田のほか五郎兵衛新田・塩沢新田・八重原新田等が前後して開発され、用水路は土からコンクリートに形を変えながらも、今も滔々と流れています。このうち五郎兵衛用水・塩沢堰が疎水百選(注3)に選定されました。
御影用水も300年を経過して土水路の破損が激しくなったために、昭和30年から45年にかけて県営千ヶ滝農業水利改良事業として改修工事がなされ、この時、用水の水温を上げるための「温水路」が新設されました。
温水路の構造等については、次回歴史的農業施設シリーズ9~軽井沢町追分の温水路を訪ねて(その2)~で紹介させていただきます。
なお、御影用水の歴史については、柏木小右衛門翁の11代目の末裔である柏木易之氏が執筆した「御影~用水・新田・陣屋~(改訂版)」を参考として書かせていただいております。
(注1)保温折衷苗代
油紙またはポリエチレンフィルムで床面をおおい保温する折衷苗代。溝のみに湛水することで水苗代と畑苗代の利点を取り合わせ、さらに生長に好適な温度を与える。軽井沢町の荻原豊次氏が考案し、長野県農業試験場の岡村勝政氏らが改良を加えている。
(注2)射流分水工
流速を速くすると水の流れは射流となり、下流側の水位の影響を受けない状態になる。この状態を利用して用水を分水する施設が射流分水工で、流量が変動しても分水比率が常に一定となる分水機能を有している。
(注3)疎水百選
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